みなさんこんにちは

 

 

 

今日は立春。暖かい季節の始まりです

立春とはいえまだまだ寒い日々が続いています、いかがお過ごしでしょうか?


石川県の地震とその後、被災者の方々を思うと心痛する毎日です。

 

暖かい食べ物にとどまらず、何の見返りもない暖かい心を持つ時代になる途上だと信じたいと思います…そのヒントがタイ🇹🇭やラオス🇱🇦にあるように感じます

 

今日のブログ写真はラオスがメインです、

ラオスを感じていただければ嬉しいです

 

筆者はタイから「明るさ・楽天的な思考」を、ラオスからは明るさ以外に「暖かみ、人への優しさ」を感じてきました。タイとは少し違いますが、この両者をタイで体感する方法を下記に記します

 

特にバックパッカー第2段を目指す方にはラオスはおすすめです。「いきなりラオスはちょっと」という方にタイ国内でラオスを感じていただける方法を少し述べます。参考になれば嬉しいです🍀

 

  1 生活面でラオスを感じるとき

 

タイの東北(イサーン=東北という意味)はバンコクや周辺都市部の人の中にはムランラオ(ラオス)と呼ぶこともあります。理由は、東北タイの歳時記(行事)がラオスの歳時記に従って行われるからです

 

例えば、ケーン(縦笛)やモーラム(舞踊)をはじめ、祭事で使う絹織物や刺繍、食べ物ではケーンソム・カオ二アオ(もち米)・カオラーム、パラーなど多くの食材がラオス発祥です


タイ人はいつのころからか、ラオスで作られたケーンなどをタイのお土産としましたが、ルーツはラオスなのです。竜神祭りも(東北)タイとラオス共通の催事です。

*今年は「甲辰の年」←竜神を崇拝しに本場へ行きましょう。福運があるでしょう

 

ケーンを演奏しながらモーラム(ラオス舞踊)

 

ケーン製造もと

ラオスの楽器

ラーイラーオ

(寺院にある彫物、物語風になっている)


首都ビエンチャンにあるタートダム

ここから竜神祭に竜神が出現すると伝承

「タートダムに行く」は土地の隠語で「刑務所に行く」

 

竜神

(パヤーナーク)

 

やはりラオスのシンボル

タートルアン(黄金塔)

 

 

ラオスの「フー」はもともとベトナム発祥です。

現地まで出かけなくても、日本のスーパーマーケットで売っています。食べ物に国境はないことが実感できる社会になりました!

ベトナムの牛肉入りフォーの店

タイで食べられない牛肉が食べられる

 

 

 

  2  言葉でラオスを感じるとき

 

ラオス語の方言はかなり大雑把ですが4つに分類されます。その中の西部方言を話す人がタイの東北部で暮らしています。少なくとも2500万人がラオス語を話せると推定されます

 

もともとタイ東北部はラオスだったのですが、フランスがメコン川沿いに定規をあてるように国境を線引したのでメコン川以南はタイになったのです。

つまり現在のタイ領にはラオス語を話せる人が大量にいるのです。

*国が別れてから時を経て、ラオス(orタイ)でしか使わない言葉が出てきましたが、YouTube やsnsの影響で以前より両国の言語は流通しやすくなっています

 

バンコクなど都市部には、(表現は不適切ですが)日本の高齢者の非正規社員に多い職種、たとえば清掃・警備・ホテル従業員・タクシー運転手・工場での力仕事などに従事するのは東北出身の出稼ぎ者が多く、試しにラオス語(東北タイ語)で話すと、タイ人の仮面を脱いでラオス人(東北タイの人)にもどり、全く別人のような親しさを感じます

 

若い世代のタイ人も両親が東北出身だと、中央・東・東北地方の会社員、個人事業主など職業を問わずラオス語とタイ語が話せます

 

少しラオス語レッスンを爆  笑

 

「マイ・チャイ(違う)」は「ボ・メーン」

「チャイ・マイ(~ですか)」は「メン・ボー」

「アロイ(美味しい)」は「セープ」

「ダイ・マイ(できますか?)は「ダイ・ボー」

「だめ!」は「ボ・ダイ!」-これはけっこうイサーン出身者にはおススメのラオス語です

 

万能語の「マイペンライ」は「ボーペン・ニャン」です

 

発音や声調は筆者の経験上、気にしない方が正しくなる確率が高くなると体感しています(ポイント☞棒読み・はっきりとした声)

*西部・南部にもラオス語を話せるタイ人はいるはずですが、筆者が出会ったことのないので仮定の話としておきます。


先程から「タイでラオス語が話せる人」と書きましたが、言語学的に言えばタイ語はラオス語の方言になります。そのため「東北タイ語」と書かず「ラオス語」と書かせていただきました。

 

ラオスへ行こう!

 

 

タイ国道2号線 ラオス国境へ

タイ側からラオスへ

タイ・ラオスの中央

ラオス側が近づく

ラオス領へ

上から見ると

下から見ると

タイVSラオスボートレース大会

ラオス側から撮影

 

 

  3  ラオス人との暖かい思い出3選

 

ラオスの首都ビエンチャンはタイのノンカイ県の対岸にあり、物流も活発です。タイの東北部、ウドンターニー県、その他からもビエンチャン行の直行バスが出ています。他のラオス国内とは違い、首都ビエンチャンだけはタイの中堅都市並みに発展し、外見は完璧に以前(2010年頃)のラオスと比較できないくらいになりました(これは隣国の影響があると思われます)

 

10年前のタラートサオ

 

タイ語ペラペラのビエンチャンっ子も一皮むけば、押しに弱く、(いい意味での)気の弱さがまだ残っています。

 

タイ同様笑顔が魅力的で親切です

 

例を挙げましょう

 

ラオスは地方にも市バスがあります。週に1回の買い出しのため市バスを使う高齢者に車内の乗客による手伝いは勿論、(規定ルートを大幅に離れ)この高齢者のほぼ家の前までバスが行きます。乗客たちは運転手に道順まで案内するくらいです。

 

日本の市バスでは考えられませんね。買い出した多くの荷物をバスの乗客が家まで運んで、バスが正規ルートに戻るまで約半時間は遅れますが、乗客は何もなかったように周囲の人々と歓談し続けています

 

地方行のバス

地方マーケット

地方マーケット

 

人を尋ねるときに道に迷っていたら、スイカが取れすぎて回収所に向かうトラックから「どうしたんだ?(ペンニャン?)」と聞かれ、とりあえず乗せてもらいましたが、このドライバーも目的地が詳しくわからず、その町(集落)の多くの人の助けを得て、見ず知らずの筆者を目的地に連れていってくれました

 

隣町に行く手段がボートしかなく、そのボートが浸水したときも乗っている人たちが助け合って事なきを得たなどなど…筆者は何度かこのような体験をしました。

 

日本ならおそらく「責任を取ってくれ」といったレベルのこともラオスでは(たまたまだったかもしれませんが)すんなりと解決策を考え、あとは自然に任せるだけでした。

 

このボートの例では、泊まるところまで行き着けなかったので、船内にいた男性から「俺の家にとまっていけ」と…翌日になって行先までの手配までしてもらったことは一生涯忘れ得ない体験になりました…筆者はタイであまり体験しなかった報酬・責任論度返しの人間らしさを感じました 

 

たったこれだけの例ではラオス人のメンタリティーを述べるには事例不足ですが、タイに飽きた読者にはラオスバックパッカーの旅もおすすめします。タイとラオス、違った良さがあるので読者の世界観も広がるのではと思います

*時間厳守をしない・目の前のことを優先するなど基本的なことはタイと同じです

 

 

4   おまけのはなし 

 

筆者が初めてラオスを訪れたのはタイ留学中の1986年夏季休暇のときでした。ベルリンの壁崩壊の1989年以前で、西側諸国陣の筆者が対立する冷戦下の東側諸国のラオスに入るのは、まさに「若気の至りというか怖いもの見たさ」でした。筆者は留学中に担当教授から誘われ一緒に行くことができました。

 

国境の町ノンカイ県(タイ領)で衣類以外は全て預け、仮ビザとパスポートだけで、入国後ライフルを持った2人の軍人同行の上で1泊の旅を経験しました。ラオスには現在多くのデパートがあります。その先駆けとなったデパートは「タラート・サオ(直訳:朝市)」でした。

 

1986年の「タラート・サオ」にデパートや露天市などの形跡は全くなく、いまでも当時の町の様子は目に焼き付いていますが、読者の想像以上のものだったと思います

 

残念ですが(カメラはノンカイで預け),たとえジャーナリストでも撮影禁止の時代、人々の生活や物価などはこのブログでは公開できません…ただ一言、泊まった宿の主は現在ラオスにも通じる優しさがありました

 

次に行ったのは1994年、当時ラオスの著名人(私にとっては友人)からのツアーアテンドのお手伝いでした。ルアンパバーンの空港がまだバス停みたいな感じで、現在のワッタイ国際空港の横の国内線部分が国際空港でした。ラオスに魅了された筆者は、タイをやめてラオスの専門家になりたいと思いましたがご縁がなく、ラオス愛好家に留まることにしました

 

ルアンパバーンの夕陽(メコン河))

地方の学校(中高)

ミニ幼稚園と聞いた

 

 

ここからシップソンパンナ(ラオスの北西)

中国のチンフォンでラオスやタイの習慣がある

水掛け祭りが行われます

家は日本と通じる何かを感じました

道行く人

ラオス正月と同じ

来世の世界を表す

(トッパタートサーイ 砂の仏塔)

タイにはありません

 

あるお寺の入り口

シップソンパンナ―文字

タイ文字と漢字とローマ字

ブログ「タイ人気質のルーツを求めて」で述べた

文化合流点(ミャンマーと中国が出会うところ」同様です

 

 

次は国際交流団体がラオスに派遣されるということで、(当時フリーランスになったばかりの筆者がラオス語講師を依頼されましたが、発音というかイントネーションがほぼタイ語なのが悩みでした。他の講師も苦戦してましたね😂

 

ひょんなきっかけで外務省ラオス語主任講師のオファーがあり、事前にビエンチャンに3か月、大学に通い徹底的にラオス語イントネーションに変える特訓をうけました。担当の先生は元ラオスのアナウンサーでした(ので厳しかったですね)

 

1日6時間、少しでも間違うとやり直しです。「私」を表す単語khoyの声調を1日50回くらいやらされました。目が合うとkhoyをやらされましたが3か月鍛えるとなんとかなると自信がでてきましたが、帰国の際、立ち寄ったタイではもうタイ語が話せなくなっていました笑い泣き

 

2年半、外務省でのラオス語指導の間、タイ語の仕事は一切やめました。結果的によかったと思いますてへぺろ

 

ラオス国立大学(2005年)

ここでラオス語修行

 

2000年に入ると、本格的にラオス語講師が求められるようになりましたが、まだ生粋のラオス語学科出身者がいなく、ラオス語の読み書きができて、なんとか話せるタイ語出身者が橋渡し的リリーフとして専門家が出てくる前のつなぎを務めた時代です。受講者様には申し訳なかったと思います🙏


ですがラオス語講師の経験が後の高校教師の授業で役立つとは思いもよらなかったのです爆  笑

 

ラオスは約50からなる多民族国家

ラオ族が複数いると言う意味でLaoが複数Laosになった


 

ここまでにしましょう