時計は無事帰還致しました。紛失して3日目に氣付き、消えた時計を家中探しに探して5日間。探しながら「お父ちゃん、ご先祖様、土地神様、精靈さん、どうかわたしの時計がどこにあるのか教えてください、」と呟きながら、狭い家の中を大捜索しましたが、頑固にも出てくる氣配がありませんでした。母の見舞いの病院に行った帰りに手首の時計を確認したのが氣憶の最後だっただけに、やはり落としたのかなぁ、と思うにつけ、どうも胸騒ぎもなく、心の奥は、時計を失くす前と変わらず水を打ったように穏やかで平静でした。ということは、どこかに在るはずです。愛着があるので、失くしたまま諦めるわけにもいかず、探しながらも、不届きにもアマゾンのサイトで同じモデルのBABYGの価格チェックのチラ見を繰り返していました。なんと10数年前に購入した時と同じ価格帯で、店頭に並ぶ新版はLEDバックライトモデルにバージョンアップしています。更にわたしの同モデルだけどういうわけか獲得ポイントが他のモデルより500点以上多い23百与点も付いてくるのですから、前に購入した時よりお値打ちになっています。うーん、と唸りました。ポチ押しすべきかどうか。いや、待てよ、これは返品商品かもしれない。葛藤しながら1週間。仏壇の前で正信偈を唱え終わってから、「もーう、お父ちゃん、時計返って来ないならアマゾンで買っちゃうよ、」とポツリと小さく独り言を呟きました。するとかすかに頭の奥で笑いながら返事がします。「そんなに必要なもんなら買えばええがや、」と。咄嗟に我に返って「じゃ、買っちゃうよ、今からポチ押ししてくる。」と仏間を出て階下へ駆け下りていきました。ノートパソコンを立ち上げ、よし、とばかり、アマゾンのお気に入りに入れておいたモデルをポチ押ししてしまいました。他の色目の同モデル商品を気にしつつも、ポイント高は魅力でした。そのあとでふと頭をよぎったのは、「出荷されました、ってなったとき、ひょこっと出てきたりするかも。」そんなわけで、キャンセルできる時間帯まで諦めることなく、入った部屋や開けた戸棚やクローゼットをその都度、がさごそ片付けながら探し続けていました。探し続けながら、アマゾンサイトの購入履歴ページを立ち上げて置き、「出荷済」が出たかどうかをその都度確認していました(わたしときたら諦めは悪いわ獲得ポイントの数字につい目が眩むわの尻の穴の小さい小心者です)。ところがこんなセコいことをしているうちに、これがゲーム感覚となり何だか楽しくなってきました。果たして、出荷済表示が出る前に(キャンセル出来る時間内に)本当に失くした時計を発見出来るのか、それとも出荷済が出てから出てくるなんて奇妙な偶然が本当に起こるのか、というスリリングなゲーム感覚です。時計と一緒に、タイムサービス中の綿100%の身体拭きタオルを注文したので、お門違いな組み合わせのせいか、「翌日着」になっているにもかかわらず、その日は出荷されることなく日付が変わってしまいました。それで、就寝前に、入院中の母の部屋の窓のカーテンを閉めに部屋に入ったときのこと。部屋に入って真正面にあるベッドのサイドレールに寄せて置いている折り畳み簡易テーブルの上に、クッションと洗濯をして畳んだバスタオルを並べて置いておいたのですが、その上にちょこんと時計が載っているではないですか。それまで2回は、テーブルのバスタオルもクッションもどけて探し、テーブル下もベッド下も探しても見つからず、元のようにテーブルの上にクッションと綺麗に畳みなおしたバスタオル並べ直した記憶が鮮明な場所に、です。あっ、と思い、もう一度ノートパソコンを立ち上げ、アマゾンの出荷履歴をチェックすると、はい、予想通り、「出荷済」になっていました。キャンセル出来なかった商品は、送料を勉強代と思って返品しなくてはいけなくなりました。どうしてこういう顛末になったのかと云えば、思い当たるのは、その日、手つかずだった介護の勉強を始めたことぐらいでした。やはり「現在に集中しなさい、今すべきことを始めなさい、」というご先祖さまからのメッセージだったのかもしれません。

 

 あまりに図星でしたので、その日見舞った母にこの話をしました。残念な話ですが、1月から3か月間、そして退院後1か月で再入院して4週間、母のアルツハイマーはかなり進行していたため、てっきりまたいつものように聞き流されるだろうと思いきや、そのときばかりは「まぁっ!」と目を丸くさせて本当に驚いてくれました。今日になって、スピ系が大嫌い、毒チン3回接種済み、毒チン副反応の話もただの都市伝説だと信じてやまない我が妹に話すと、予想通り「スピ大好きなお姉ちゃんらしい話だけどさぁ、自分で置いたのをただ忘れてただけじゃないの?」と鼻で笑われ、軽くあしらわれてしまいました。陰謀論界隈的に言えば、彼女の世界観は、見えているものが全て、というフリーメーソン式な、いわゆる大人社会、真っ当な世界のスタンダードであり、わたしが変わり者過ぎる、というところなんでしょうが。と、言うわけで時計は無事帰還。更にアマゾン返品手続きの際、送料天引きとはならず、全額返金されることも分かりました。何という有難い顛末でしょう。本当に、見えない世界からのメッセージ的悪戯だったのかな、と反省しきりです。ともあれ目出度し目出度し。

 

 元々母の部屋は、旧式建築にはよくある「応接間」という殆ど人の出入りのない北向きで窓は大きくても玄関横にあるため、防犯の観点からあまり開けっ放しにすることはない部屋でした。築47年の鉄筋コンクリートとはいえ未だに悩まされる湿氣のために壁紙はめくれ上がり、一度は張り直しをしたことがあるものの、湿氣で再び壁紙の継ぎ目が目立つようになっていた場所でした。その湿氣臭い部屋に建築当初から飾っていた金色の小さな回り置時計があります。新築祝いに母の実家元の兄が贈ってくれたナショナルの時計でした。その叔父も40年近く前に他界し、形見になった時計です。母が定期的に電池交換をしていたので、19年前に父が亡くなってからもしばらくは動いてくれていたのですが、いつのまにか母も電池交換を忘れるようになり、氣付いたときには壊れてしまっていました。電池は液漏れを起こしかけていましたが、昨年綺麗に取り除き、電池を交換すると再び動き出したので喜んでいましたが、1か月もすると止まってしまう始末。電池を再交換しても止まってしまう。少し傾けてから水平に置き直すと、振り子は再び回転し始めましたが、3時13分の位置で長針も短針も頑として動かない。訪問看護や訪問診療の来客が入るので壊れた時計をそのまま部屋に置いておくわけにもいかず、階段脇の棚の上に放置していました。ところが失くした時計の問題が片付くと、何氣に放置した壊れたこの回り時計が妙に氣になるのです。元気なころの母はダスキンで小まめに手入れしていましたがそれも無くなり、我が家に来て47年にもなる金色の時計はくすんでしまい、かつての輝きも失われ、ところどころにごく小さな錆が出始めています。本来なら捨ててしまうところなのですが、わたしは断捨離が苦手で、ましてや、当時病氣がちになり経済的にもどうだったろう、と想像するに難くない叔父が吟味して届けてくれたナショナルの祝い時計。当時は現在ほど安価なものではなかったと思うにつけ、今となってはそれが叔父の魂であるかのような氣もして、昨年から、直して何とか使えるようにできないものか、と考えながら、結局ズルズルと後回しにしてきたのでした。母が何度も死の淵から生還してくれたのは、母が大好きなこの自慢の兄だったり、亡き父やご先祖さまのお陰だと思うにつけ、思い出のあるもの程、今こそ大切に扱わなくてはいけないという氣がしています。

 

 今年2月、地元の大病院からリハビリ病院へ転院したとき、その道すがらにパン屋と並んで小さなアーケードを歩道に構えている昔ながらの古い時計屋の「時計修理」という看板が氣になっていました。「第一、第三水曜日定休日」とも書かれており、きっと商売っ氣のない頑固な本物の時計職人のお店に違いない、と云うのが横を車で通り過ぎたときの第一印象です。実はもう少し自宅に近い商店街にも「電池交換、時計修理します」と看板を掲げた小さな時計店があることは知っていましたし、さらにもう一軒、共産党系病院付属の老人ホーム1階にある喫茶室のデザート込みの700円日替わりランチをしにごくたまに出掛ける道すがらに見つけた、車で通り過ぎたら見落とす位地味な「時計修理」と入口に手書きされただけの民家もありました。それでも、車でしか行けない遠方にある時計屋が真っ先に頭に浮かびました。「失くした時計が出てきたのだから、壊れた時計を直して恩返しをする番」という懺悔の氣持ちが後押しして、今でしょ、と重い腰を上げる氣持ちになりました。それでも躊躇いはありました。病院の母に「修理費が1万円以上になるのなら、少し考え直そうかな、とも思うんだけどね、」と話すと、母はまたもや大きく目を見開いて正気付き、「それならわたしが出すから、1万円以上しても直してもらってちょうだい、」と言います。母が大好きだったすぐ上の兄の形見でもあり、自ら長年よく手入れをしてきた愛着のある時計であることを思い出したのでしょう。実はその日家を出る前、この時計を持っていくにあたり、ちょうどぴったり収まる紙袋はないか、と土間に据え付けてある棚を見に行くと、どういうわけか、マチの広い、時計がちょうどぴったり、すっぽり収まるサイズの白い紙袋がヒョコッと棚から顔を出していたのです。まるで今日わたしが時計を修理に出すことを知っていたかのように。そしてそこにわたしの目も迷うことなく土間に出た瞬間、その白い紙袋に引き付けられました。その話をすると更に母は目を丸くして「ええっ?」と一言。今回の入院先はたまたま共産党系らしく、母が60代の頃にボランティアをしていた共産党系病院に似て、先生も看護師さん、事務の方も皆ニコニコと良い方ばかりで、テレビも見ない、何もしないで病室でぼんやりするだけの母を氣遣って、数人の他の患者さんと一緒に事務所の一角に置いたテーブル席につけてくれ、声掛けもしてくれるので、母はその待遇がすっかり氣に入ったようで、「寂しくなくて、ありがたいの、」が口癖になっているほど。これまでの病院ではなかったことです。それでも今年に入って4か月の病院暮らしの挙句、特殊な障害のある方に特有な、小さくまん丸な、そしてどんよりと無表情な目になってしまい、認知障害者と一目で分かるような面差しを呈しています。そんな中で、わたしが奇妙な話をすると、どういう訳か、ハッと生気を取り戻すような表情を見せてくれるのです。こんなときだけは目の形も表情も、一瞬にしてかつての普段の母のそれらに戻るから不思議です。毎日の見舞いの折に、添加物と禁忌となっている小麦や乳製品を避け、米粉や寒天、おからで作った手作りの菓子を持参するため、何を話すという訳でもなく、それだけの面会時間になっていました。仮に何か話しても食べながら興味なさげで返事もなかったりということがありましたので、意外な発見でした。

 

 カンフェレンスを経て、退院日は訪問看護の日程と調整し、最終的に6月5日、地元の大祭の日になりました。看護師さんも担当医の先生を始め、居合わせた方々が、花火も見られるしお祝いにふさわしい良い日になりますね、と本当に喜んでくれました。その場に居合わせた母だけは、車椅子でうつらうつらとしていましたが。家族のわたしが不安がっている、ということを踏まえ、「ご家族様にはボンベ吸引装置の許可を得てはおりますが」と前置きしたうえで、病院のチームの皆さんが何とかして酸素ボンベを見送るための訓練を母に施してくれ、母の身体もそれに応えて、何と昨日のカンフェレンス直前のレントゲンでは胸水もほぼ抜け、今週に入ってからの酸素無し生活を試して下さった結果、血中酸素量の大幅な低下も見られなくなった、という訳で、「ボンベ無しの退院許可を出すことに致しました」と嬉しい退院許可を出してくれました。ただ、夜間就寝後の30分おきの端座位は依然心不全の兆候はあるため、再入院もあり得ますので、必要に応じて随時受け入れる、という条件付きでした。主治医は、転寝をし続ける母の肩にそっと触れて「これからも何かあればまた戻ってきてもいいですからね、長い付き合いになりますが、よろしくお願いしますね、」と声を掛けておられました。何とも複雑な心境ですが、有難いお話です。ただ「夜間が心配なので、夜間用の酸素吸引が出来るようにできませんか?」と、わたしから切り出したため、結局、酸素ボンベと吸引装置付きの退院になってしまいました。要は家族としてわたしが、隔月入院なんてことにしたくなかっただけの話です。

 

 さて時計屋です。時計屋の前を車で一端通り過ぎたとき、ガラス戸の内側で時計屋の高齢の主と思しき男性が室内を箒で掃き掃除しているのを目にしました。何とも昭和的な牧歌的光景に、ここなら間違いないかも、という直感がしました。数件横のセブンイレブンの駐車場の片隅に自家用車を止め、店にお邪魔しました。もう数十年も時が止まったような古い陳列棚に、随分昔の型の腕時計、置時計が丁寧に並べられています。大柄で恰幅の良い白髪の老人は作業台の前に座り新聞を読んでいるところでした。叔父の古い時計を見せたとき、わたしは後悔していました。ああ、ちゃんと磨いてくるんだった、と。金色は煤け、埃すら掛かっていたからです。老職人は丁寧に中を調べ、時計の2か所に設置された電池を取り出し電圧を測り、電池が原因ではないことが分かると、黒い新しいムーブメントを引き出しから取り出しました。時計の背面の穴からはすぐに入らず、その場で取り換えることを諦めたように「動くようになると思いますよ。でも中の部品を取り寄せて取り換えることになるから、10日くらい貰えるかな、」と言い、注文書を取り出して「4千円」と書き込み、店のゴム印を押して一部手渡してくれました。「これ位掛かっちゃうけどいいですかな?何とかこれで収まるようにやってみますわ。」と穏やかな口調でした。期待通りの良心的な昔気質の職人さんだ、とわたしは内心感激しました。かくして、時計は現在修理の途にあります。

 

 最後にもう一つだけ、どうしてもやっておきたいことが残っていました。これこそ、ずっと後回しにしてきたことです。今年2月になって、父方家系図を作ろうと思って地元の役所に出掛けてたところ、明治5年戸籍法以来の父方の戸籍謄本を手に入れることができました。残るは母方のそれです。わざわざ隣町に行って母方実家の戸籍謄本を取りに行くのですからずっと後手後手に回ってしまっていましたが、実は、父方の後は、母方の誰か、名前を読んで光を降ろさなくてはいけない人がいるような予感がずっとしているからでした。