昨年の秋に最後の投稿をしてからもう半年。わたしの世界観は思いもよらない展開となりました。初めての心不全から20年を経た母が今や要介護4となったのが2月末。緩やかに進行していたはずの軽い認知症(5年前の心臓手術前に撮影した脳MRIではアルツハイマーではなかったのですが)が正月明けからの2か月の入院中にいつの間にかアルツハイマーと診断されるに至り、いつ命の灯が消えてもおかしくない心疾患とそれに伴う胸水、果ては腎臓疾患で下肢の浮腫みと硬化し、下肢の皮膚にはところどころ何か宇宙生物のような不気味な形状のおできが出来、その部分の皮膚はただれ膿を出し続け少しずつ成長しており、更に1月末に心不全で再入院した病院の退院時に転倒、片側大腿骨骨折するも心疾患を考慮して手術不可、骨折箇所留置で、採尿バッグをお供に車椅子生活を余儀なくされたからです。本当に母の身体は、投薬地獄に耐えながらも、病とよく闘ってくれています。仮に彼女が完全に正気で素面だったとしたら、この不幸を悔やみ嘆き、もう怖くて辛くて痛くて生きているのも耐えられない状況だったろうに、と想像するも、絶妙なバランスの認知機能不全が、彼女の命と精神を現時点での最善のポジションで守っていてくれているようにも見えてくるのです。

 

 わたしと看護師の目の前で転倒した母を呆然と見ていることしかできなかったことは今も悔やめて仕方がない一方、こうなることを既に受け入れていたかのように穏やかに捉えている自分がいたのも事実でした。昨年12月初めには散歩がてらの外出を嫌うようになり、半ばには自家用車で買い物に誘っても行きたがらなくなっていました。わたしが母を残して1時間超の買い物から帰ってきても、母はリビングダイニングのテーブル席についたまま、出掛ける前と同じ新聞の新聞の同じページを同じ姿勢でぼんやり見つめたままじっとしていたのです。彼女の時間だけ止まってしまっていたかのように。思い出せば19年前に他界した父も、他界する半年ほど前から同じ状態でした。そして父と同じように母が12月になって突然話し出したのは、「わたしね、本当に幸せだったよ。四国も4回巡礼できたし、坂東、花寺、西国も巡礼したし、海外旅行にも何度か連れて行って貰えたし、山登りもした。もうやり残したことはないよ。」と。暮れになって、入浴時に酷い貧血となり浴槽から出られない、という症状が出て、年明けになっても貧血が酷いから、という理由で入浴を避けるようになっていました。それでも気丈に「入院はもうしないの。何があっても定めだと思っているから、」と言っていました。また、4週間毎に投薬を受けるために通院していた町医者へも、薬が残っているなら身体がだるいから行きたくない、と先延べしていました。下肢の浮腫みはいつの間にか赤く腫れあがって硬化しており、手指にも浮腫みが広がり、腹水まで溜まっているように見え、わたしが我慢できなくなりました。年明け1月11日になって、「とにかく水だけでも身体から抜いて貰いに行こうよ、」と、わたしは、嫌がる母を無理矢理誘い出し、町医者へ連れて行くと、すぐに再入院の手続きを進めましょう、と紹介状を渡され、そのまま母を連れて病院に走りました。即決が功を成したのか、奇跡的に入院一晩で下肢と手指の水はすっかり抜け、頬はピンク色で、完璧なまでに回復を見せた母でしたので、その時点で退院出来ていれば良かったのかもしれませんが、一度入院すると2週間は出られないのが入院事情。見違えるほど元気に見えたその日、母はわたしに嬉しそうに「あのね、入院はこれっきりにしますからね、って○○先生(町医者)に伝えておいてね。もう何があってもこれも定めだから。」と言うのです。そう語った翌日から元気がなくなり、みるみる生気のない青白い病人の顔になり、意識もぼんやりし始め、1か月後にはアルツハイマーと新たに病名が付け足されることになりました。そして退院を迎えた1月27日の退院の朝、ナースステーションに挨拶に行くと言って立ち寄った医局の皆さんの目の前で、母は崩れるように倒れ、悲劇となりました。

 

 「頭を打って出血していたので4針ほど縫合することになったけど、頭の損傷はなかったみたいで…」と、電話で妹に惨状を伝え始めたところで、「まさか骨折はしていないよね?!」と返ってきました。「左大腿骨を骨折して…」と続けるや「あ~、」と妹の深いため息が続きました。わたしの頭の中は、あまりの展開にどこか夢心地で、その反面、このまま車椅子で終わらせないぞ、という闘争心すら芽生えていました。

 

 その翌日、母を再び見舞いました。前日の朝退院するとき、同室の3名に一人ずつお礼とお見舞いの言葉を残してきた母が、同じベッドに退院後数時間でまた舞い戻ったのですから、彼女の落胆を思うと当然かもしれません。コロナ禍で午後2時から4時までの制限時間内に訪れたとき、看護師が少し動揺して話してくれました。「骨折部位を動かさなければ痛みを感じないようなので、退院できなくなった理由が理解できなくて少しパニックを起こしてしまい、今安定剤を注射させていただきました。」それを聞いた上で病室を見舞うと、ぼんやり眠そうに穏やかな顔をしていましたが、浴衣が少しはだけていて見えていた首の付け根から両肩の皮膚に強く押し付けられたような赤い手跡がついていたのです。わたしは注射をしたという事実より、その手跡にショックを受けてしまいました。

 

 翌朝8時半ごろ、仏壇の水を交換し、正信偈を唱えた後で、わたしは関を切ったように、前日見た光景を思い出すと涙が止まらなくなってしまいました。「お父ちゃん、余りにも可哀そうすぎる。あんなに手荒に扱わなくてもいいのに。どうしてあんなことになるんだろう。人間の尊厳を何だと思っているんだろう、」そう言って、仏壇の前であられもなくさめざめと泣いてしまいました。するとその時、奇跡が起こったのです。わたしの耳元から頭の中で小さくテレパシーのような父の声がしたのです。「連れて行こうか?」咄嗟に、「ダメ、まだダメ、それだけは止めて。」と声に出して首を横に振りました。それでハッとわたしは我に返りました。それから4時間ほどして、母の過去の入院記録や通院領収書、投薬記録を整理していたときのこと。再び父の声が聞こえました。「命は助けたる。その代わり、後で泣き言言うなよ!ええか?」と。「うん、うん。」とわたしは頷きました。涙があふれてきました。その日の午後、見舞いに行ってその話を母にし始めると、「え?何て?もうダメだって?」と横になったまま興奮気味に問い返してきました。「ううん。『命は助けたる。その代わり、後で泣き言言うなよ!ええか?』だって。」と返事をすると、母は、呆然として天井を見つめたまま「ああ…、助かった…。」と言いました。何があっても定め、もう覚悟は出来ている、と何度も語っていた母が、わたしの戯言に笑うどころか、命拾い出来たと大きく胸を撫でおろしているように見えました。

 

 「夜中に烏がけたたましく鳴いて喧しいとどこかの家で不幸がある、」という迷信を聞いたことがあります。ですが、実際、かなりの高確率でこれはわたしの近所では命中しています。わたしの父の時も亡くなる数日前に、わたしの家の屋根で深夜にカラスが喧しかったし、お隣も家の同級生のお母さんが他界したときも、お隣の屋根で深夜けたたましく何羽も飛来して鳴いていました。そして昨年の暮れが近づく深夜にも、わたしの家の屋根かすぐ近くで数羽のカラスがけたたましく鳴いていたからです。昨年暮れ近くになると、何やら楽しかった思い出やはたまた大昔の、初めて聞くよう子どもの頃の話まで幾つも披露していた母に危機感を持っていたこともあって、深夜のカラスの鳴き声にはやはり不吉な思いがぬぐい切れないのがどこかにあったのかもしれません。後に、この頃お隣のご主人が突然他界されたと耳にすることになりました。わたしの頭の中では母の病状が悪化していても「大丈夫、回復する、」と信じていたせいか、何の不安な予感も感じていなかったのと、病院に行きたがらない母の気持ちに甘えて、見過ごしていましたが、「1日入院して水を抜いて貰えば回復できるから、」と母を連れ出しました。それは正解でしたが、ある種の定めが待ち構えていました。

 

 「車椅子になる」と聞いても、どういうわけか、わたしはどうしよう、とパニックになって落ち込むよりもむしろ、介護の面倒なところをヘルパーに一任するつもりは最初からなく、どうやって介護方法を知ることが出来るのだろう、と前向きに考えていました。実は昨年暮れに外出したがらない母に向かって「歩きたくない、なんて言っていると、歩きたくても歩けなくなるよ、そこにそのままずっと座っていなくてはいけなくなっちゃうよ、」と何の躊躇もなく何度も小言を言っていました。それが現実になってしまったのです。だから実はわたしはこうなることを予知していたのかもしれない。わたしはわたしの定めを知って受け入れる覚悟がもう出来ていたのかもしれない、そう感じたとき、介護の勉強をしてみようかな、とPCで検索し始めていました。1月27日の事故の2日後のことでした。ふと目を止めた「介護者初任者研修通信講座」のサイト。1月31日正午までに受講料を収めれば4割オフとか何とか。3月半ばから3か月半の日曜スクーリングが必須の通信講座。31日最後の日に、母が退院したとき日曜日に母の面倒を見てもらえないかと妹に相談すると二つ返事。ギリギリのタイミングで申し込みに間に合わせることができました。最善の状況で行くべき道が開かれていきます。平日はまだ働いている身体の弱い妹に日曜日まで拘束するのは心苦しかったのですが、これも定めなのか、妹の会社は外資に買収され、支店閉鎖で、妹は解雇を余儀なくされました。そうして心苦しくも妹に安心して日曜日に母を預けることが出来るようになりました。一つ決まるとわたしの中に迷いは無くなりました。介護保険の取得、母の部屋を1階に移すために部屋の整理とバリアフリー化工事をどう進めるか、と、内装をいつもお世話になっている隣の町内の現場棟梁の建築屋さんに相談し、病院カウンセラーにも尋ねるなど、いつもののんびり屋のわたしとは別人のように動き回っていたと思います。その頃、わたしはYouTubeである動画に出会っていました。「わたしは『尾張名古屋(出身)の終わらせ屋のケイコ』と呼ばれています。わたしの命の安全のために、わたしはハワイの奥地、電気も通っていないような未開の地に隠れ住んできましたが、世界のひな型である日本、そしてその縮図である沖縄から解放される日が近いので、それを見届けるために、出来るだけ長く日本に滞在しようと意を決して来日しました。」「素戔嗚尊の剣である「天叢雲剣(草薙剣)」が名古屋の熱田神宮にあります。一宮にあった終わりのラインが熱田神宮にまで下りてきているということは、これまでの(不条理な)世界の終わりが近いということなのです。」「わたしが何をするわけでもないのですが、直接的間接的にわたしに出会って話を聞くことになった方は、それまでの人生の何かを終わらせる経験をされてきたはずですし、これからわたしの動画に出会った方も何らかの終わりを経験することになると思います。わたしがそういう意志を持ってそうしているのではなく、わたしが「尾張(おわり)」に生まれたことに意味があるのだ、と霊力のある方が仰っていました。」

 

 

 

 人は皆何をしようと決めて何のために生まれてくるのだろう、と考え続けた半世紀超でした。そんな悠長なことを言って自分探しが出来るなんて、貴女幸せね、と皮肉を言われたこともあります。日々の生活と仕事と家事に追われて、そんな贅沢を言って悩んでいる暇はないのです。少なくとも結婚歴がないので、生活や子どもやママ友の悩みはありません。仕事はしていましたので、人間関係のしがらみで苦しむことは多々ありました。好待遇の大企業とは無縁でしたので、安月給は当たり前。不満に思うこともなく、自分の贅沢な魂の悩みを抱えて、グッズやサプリ、健康や開運法にかまけて過ごしてきましたが、腑に落ちるような気がしても居心地の悪さはすぐに蘇ってきて、どこか健康上の不具合を抱えては医者巡りをしても、一向に良くならない半世紀でした。そんな自分が今度こそ終わる…と直感した動画でした。それはわたしの人生の最終章の幕開けでもあります。そしてその通りになりつつあります。14,5年、何軒も整形外科を回っても直せなかった足の痛みや首の痛みが数年前のマグネシウム健康法で多少和らげることは出来たものも、忘れたころにまたブーメランのように戻ってきてしまう症状に悩まされてきました。それが昨年覚えた光を降ろす瞑想でまたぐっと楽になりました。そして今、母を看ると覚悟を決めて、定めだったかのように通い始めた介護のスクーリングを経て、気が付くと、全部すっかり、そう、全部嘘のように治ってしまったのです。

 

 4月3日に母が退院し、1か月。ウロバッグは付けたまま、両足は硬化が進んで伸ばすこともできず、とりわけ左足は骨折部位を抱えているので動かせない状態です。それでもベッドから車椅子、ポータブルトイレへの移乗のリハビリをしていただいているので、段差のあるトイレでも介助をすれば立ち上がり便座まで移動する頑張りを見せてくれる母に感謝、感謝です。わたしの首に腕を巻き付け、えいと立ち上がってくれる瞬間、やっと恩返しができたね、とわたしは心の中で呟いてはうれし泣きをしています。生きて帰ってきてくれてありがとう、貴女から受けた恩を我が子へと恩送り出来なかったわたしが出来るのは、貴女からもらった愛を恩返しすることしかできないのですから、と。

 

 その母が1か月を経て、再び不整脈から生じる心不全で緊急再入院となってしまいました。4月の退院後10日もすると、既に横になることが出来なくなっていたのです。左大腿骨を骨折しているため、就寝後すぐは右側を下にして頭を高くして寝ていたのですが、入院中から何度も深夜に端座位になっていたそうで、その癖は抜けず、やがて横になると苦しくなるようになっていました。処方されている利尿剤があまり効かなくなっていたので、副作用の強いものをこっそり遠ざけて、メヒシバ茶を1日に100~200cc取り、強ミヤリサン錠(ミヤリサン錠には何のためか分かりませんが発癌性が疑われるタルクが含まれていて長期間続けるのは避けた方が良いようです)を2錠昼と夜服用させ、尿量は回復、便秘も改善されていた矢先のことでした。訪問看護の看護師が訪問後に訪問医療医師に電話連絡をしたところ、医師がすぐに駆け付けてくれ、腎臓に働きかける処方利尿薬では肺に溜まった水は抜けない、入院させてください、救急車で来てください、と指示を受け、気持ちの良い風が吹く静かな夕刻に、わたしも母も人生初めての救急車に乗車させていただきました。ご近所の皆さんに見守られて。胸水の排水は非常に遅く、退院は1か月くらいになりそうですが、何とか今回も命を拾って帰還できそうです。

 

 実はあの烏たち、またもやゴールデンウィーク中に我が家かお隣さんの屋根で深夜けたたましく鳴いておりました。私は心の中で「え~っ?!また?うちじゃないよね?」と疑っておりましたが、結局連休明けの5月7日に再入院することになってしまいました。すると、その週末に町内会の回覧板が回って来まして、引っ越して間もないお隣のおじいさんが連休中に他界されたことが記されていました。なんの罪もない烏さんたちには申し訳ないですが、縁起が良くないので町から一掃して欲しい生物だと思っています。取り敢えず母の居ぬ間に、6月半ばに迫ってきた初任者研修の修了テスト勉強をしなくてはと焦っているこの頃です。スピな話は実は続くのですが、また次回に記録しようと思います。と記した今日は完全にわたしの備忘録。どなたの目を汚すことがありませんように。