おしさしぶりです | はきだめにダイアモンド

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あたしの考えたこと、そのまま 流れ出るもの、そのまま 受け止めてください、このまま

 なんだか眠れそうにないからブログ書こうと思います。
 ネットに疲れたからSNSを徹底的に手放してみたら案外いけました、今まで色んな人と関わってきたけど、それがなくても私は私でいられるんだと気づきました。新しいところで毎日毎日不安がってた私は、もういません。居場所はあります。つくりました。迎えてくれる場所があるのです。もう大人だから、自分のことは自分でどうにかできます。
 夏目漱石は、京都がさびしいところだと感じたそうです。私も、なんとなくわかる気がします。私の感覚で、ですが、たしかに寂しいところだと思います。とにかく、変わり身がはやい。毎日違う顔をして、私に知らんぷりを決め込むのです、初めて京都にきたときの私も、今ここで京都に下宿している私も、京都に対する態度に、少しも変わりはないのです。京都は私を異邦人のように扱うのです、いつまでも。私もそのように、京都を楽しむのです、いつまでも。それはめまぐるしい興奮と発見に満ち満ちていました、とても楽しい、会う人会う人、みんなが新しく見えた、でもそれで終わりなのです。新しさは一瞬のもの。きらっと光って、心に影を落としていく。私は、気がつけば一人、京都はいつのまにか、私を置いてどこかへ行ってしまうのです。京都の、どこを探しても私はいない。夏でも寒いような、さびしさを並べた小径。死にたい、とも思わない。生命は生きる、ということを意識せずに吸う、吐く。とうとう、私は私を見失い、しかし機械的に家へは帰って、疲れた身体を布団へうずめ、明日をじっと、待つのです。それは死刑を宣告されたような、いやに静かな夜なのです。色んなことを考えます、ぐるぐるぐるぐる。私はどうしたら一人前のいのちになれるかなどを。京都と、どうしたら仲良くなれるかに似ています。京都は、私により強い刺激とより深い葛藤を与えます。充実した時間というのは、止まって感じられます。しかし時間は確実に、コクコクと、流れているのです。哲学の授業では、時間を感じているのは、被造物だけであって、本当は時間などなかったはずだと教わったのですが、そんなこと気づきたくなかった。時間は誰のものでもないはずなのに、なんとか自分で御そうとして、できるはずがないのに、御さないといけない必然があって、もうどうしたらよくわからない、漠然とした不安に囚われるのです。漠然とした不安というのは、人を簡単に殺します。逆にいうと、人を正常に縛ってくれるものかもしれないですが。

 今日パパと話しました。パパと話すといつもお金の話題になっていくのですが、なんか、今日のだけは聞きたくなかった。私が想像していた幸せ――色んなことが起こるけれども、とりあえずはあるだろうと信じていた幸せはどんどん壊されていきます。幸せは人を馬鹿にするだけのものなんでしょうか。幸せとはつまり、お金なのでしょうか。そうだとも思うし、そうでないとも言いたい。正直、かなり不安になった。なんで私、こんな風に普通に暮らしてられるんだろ?相当鈍く図太く、生きてるんだろうな。生かされてるんだな。って。なんかいま、すごく幸せじゃない。誰のために生きてるか、わかんない。自分がしたいことに忠実に、生きてる、そう思わなければ今にも止まってしまいそうな、それほどの内容をパパに聞かされて、そもそもパパはそういうところがあるんだけど、それにしたって、きっつい。こんな状況で野心なんて湧くわけがないんだよ。子供が欲しいとか、安定が欲しいとか、人並みのことが人並みにできたいとか、そんな平凡な願望しか、湧いてこないよ。
 みんないま、どんなこと考えてるの?

 大学にいるときはすごく自分が活き活きしてるってわかるよ。好きだもん、勉強。もっと知りたいに応えてくれる場所ってすごく素敵。でもそれは夢でしかないんだ。現実に戻ればそれはハリボテの竜宮城、社会に出てどのくらい役に立つか分からない方面でいやに賢くなって、理想とのギャップに苦しめられるんだ。そんな人生なんだ。少しの幸せはあるかもしれないけど、ほんの一瞬でいいよ。ずっとだったらママみたいに馬鹿になっちゃうもの。一瞬の方が、印象強く、残るし。
 はぁ、なんかとっても、疲れたよ。