お久しぶりです!
パリにてギニア人の夫と1歳半の娘と暮らしています。
→ 家族紹介はこちらから(^ ^)
今日は、久々に私とアフリカシリーズの続き、そしてとりあえず完結編です。
これは、ギニア出身の主人と結婚することになったいきさつの発端であるわたし本人とアフリカの出会いを描いたエピソードです。
(→ 前回までのエピソード)
もうちょっとだけ、自分語りにお付き合いを。
あ、その前に最近の娘の進歩がすごいので現在進行形の一こま。
最近言葉出てきたーーーー!!(仏語も日本語も!)
さて、本題に入ります。
今までセネガルのことを書いていましたが数年セネガル生活をした後、ダカールからパリに移住することにしました。(その後もセネガルには毎年のように行きますが・・・)
アフリカと花のパリ???何の関連が・・・と言われがちですが、セネガルは元フランス植民地。なので公用語もフランス語(もちろん普段の会話では民族の言葉ですが)、文化的にもよく似ているのです。
そして、
この移住したきっかけは、遊学生活を続けてきた私も、送らばせながらそろそろ進路を考えなくてはならない時期に来ていたからで・・・
大学時代の友人の就活の話なども、まるで別の世界のものがたりのようにぼんやりと聞いていた私。
企業で働く自分というのが全くイメージできないまま大学を卒業し、そのままセネガルの大学に編入しました。
とりあえず修士課程の学生身分でセネガルで勉強を続けていたのですが・・・
やはり好きなことを職業にしたい、ということで
興味のあるアフリカ、特にセネガルの宗教や社会について徹底的に研究することに。
実はそこで行き着いたのが、フランスの国立図書館や研究所だったのです。
→ フランスの図書館には、セネガル本国の資料館ではもうぼろぼろになって読めなくなってしまった独立当時の雑誌や、植民地時代の書簡まで、なんでも見つかります。保存状態が良いので・・・。
これにはびっくり。
ということで、パリに滞在しだした私。
しかし当時の私のフランス語はものすごいアフリカなまり
(^□^;)
「は?」と聞き返されることもしばしば。でもめげない!
運良く受け入れてくれる先生や大学も見つけました。
そして、私を癒してくれたのは・・・
パリの混沌とした移民文化。
初めは「これがパリか!!!」と目を疑ったり・・・。
でも、それはつまり私も外国人ではなく、パリ人として生活できるということなのです。
あきらかに一般に言われるフランス人の容姿でなくても、容赦なくフランス語でがんがん話しかけられるのも、「住民としてできてあたりまえ」と思われるからで・・・
もちろん人種差別や言葉の壁がないわけではありませんがこのへんのおおらかさはすごいと思いました。
そして多文化。これがどんなに便利かというと・・・
中国人やアジア人の多い地区に行けば手軽にアジアの食材(日本の食材ももちろん。麺類や豆腐、白菜大根なんでも)が手に入る!おいしくて安い中華料理もたくさん。
インド料理も、アラブ系料理もたくさん。おいしくて安い。
食べ物ばかり書いていますが、
私がはまったのはラテンダンス。カリブやラテンアメリカ出身の人がダンスクラスやパーティをたくさんやっているので、これに参加してソーシャルダンスを趣味で始めました。
そして、
アフリカ人の多い地区に行くと、まるでダカールの一角かのような雰囲気。
(道端で物を売る売子、アフリカ食材を扱った店もたくさん)
もちろん目当ては・・・
セネガル料理が懐かしくなったときはよく行っていました。
オーナーさんがセネガル人の店では、言葉も現地の言葉が聞けるので、満足感倍増。
どんな料理かというと♪
↑セネガル国民料理の「チェブ・ジュン」。魚と野菜のトマトソース炒め煮の煮汁で御飯を炊き上げた絶品。
(写真はセネガルで撮りましたが、パリでも本場の味が食べられます)
こうしてパリに流れ着いて数年、
もちろんビンボー生活で大変なこともありましたが、いろんな国籍の友達ができたり、ラテンダンスのショーをしたり、大学関係の職を得たりと、充実した生活を過ごしておりました。
そして、2013年、今の旦那になった心優しいギニア人の彼と運命の出会い!
があり、お付き合いがあり、結婚があり、今に至る・・・。ということです。
ここでとりあえず「私とアフリカ」
ちゃんちゃん♪
(完)
※ 永らくお付き合いいただきどうもありがとうございます!これから「私とアフリカ」のタイトルで、アフリカの文化や習慣について色々書くかもしれません。
ぴよピヨ物語、引き続きよろしくお願いします!