たまたま、スマホを開いたら
2年前の今日の記事が上がってきた。


ひゃー爆笑爆笑爆笑
懐かしい…チューチューチュー

ノエさんのカフェ、
Ones Jingumaeで
アイキン(当時は愛ちゃんと言ってた)の個展の
ラストデイに
グッズやアートと共に
アイキンの持ち物などのオークションが開催され
その時、ゲットしたお宝のひとつ

それがこちら、
アイキンがアートを描く際に
使用したビニールシート

私、実はアイキンの
アート制作インスタライブなどで
いつも、制作中に使う
ビニールシートに
絵の具が飛び散ってて、
それが欲しいな、と思ってたんですよね
チューチューチュー

アイキンのサイン入り 制作時に使われたビニールシート

美しい色とりどりの絵の具と共に
制作に集中しているアイキンの
エネルギーが転写されてる気がして
爆笑爆笑爆笑

万葉集の歌の一節にもありますよね!
恋人の出征に際して
詠んだ句だったと思うんですが、


貴方が出かける時に踏んだ石は
玉の様に大切なものとなった(意訳)

みたいな感じかな
照れ照れ照れ

話はだんだんそれていきますが、


この歌、本当に好きなんですよね。
作家であり前ノートルダム清心大学学長、
カトリックのシスターで、マザー・テレサが
来日された際にはずっとマザーに付き添い
通訳をされていた渡辺和子さんが
講演会で話して下さって以来、
ずっと心に残ってて…


ちょっとこの句に関する文章を見つけたので
引用させて頂きますね✨
照れ照れ照れ

私と万葉集①~君し踏みてば玉と拾はむ~

信濃なる千曲の川の細石も君し踏みてば玉と拾はむ

(巻十四 3400 東歌)

 ちっぽけな石ころが宝物になる。不思議だが、感覚的にはうんうんと頷ける。

 信濃国(長野県)にある千曲川。険しい山あいを幾重にも曲がって行くので千曲川というのだろう。上流の大きな石が急流を転がり、細石となって河原に運ばれる。その河原を恋しいあなたが歩いていた。あなたが踏んだなら、私は宝石と思って拾おうという歌だ。

 昔の人は、ふれたものにその人の魂がうつると信じていた。だからちっぽけな石ころでもその人の魂が宿る宝物になるというわけだ。魂なんて非科学的だと思うだろうか。不思議だけれど、上手く説明できないけれど、やっぱり大好きな人がふれたものは宝石のように大切なものになる。好きなアイドルでも作家でもいい。そのサイン入りの本は何物にも代えがたい。「形見」という言葉がある。亡くなった後もその人の心がこもっていると思って大切にする。一三〇〇年以上も前の人の気持ちを現代の私達が、うん、そうそうと抵抗なく受け入れることができる。共感できるということだ。ものにも大切な何かが宿っているという感覚を現代の私達も失ってはいない。そのことに、この歌は気づかせてくれる。

 古文の最初の授業でよくこの歌を紹介する。高校生はもちろん中学生でもちょっと古い言葉だけ教えればうんうんと頷く。「ちっぽけな石ころが宝物になった経験はありますか」と問えば、自分の身の回りのことを考えてさらさらと文章にできる。これは奇跡だ。一体世界のどこに、一三〇〇年も前の詩を読んで中学生がすぐに理解し、共感できるなんて言語があるだろうか。幾多の危機を乗り越えて奈良時代の和歌に共感できる、そういう日本語が残ったという幸せを、この歌はいつも思い出させてくれるのだ。高校生になると古典文法が難しくて、古文なんか外国語みたいだという生徒も出てくる。そんなときこの歌に立ち帰る。ほら、私達も同じ気持ちだったねと。

(東京都立高校教師 越智 薫)


こんな風に、

はたからみれば、

何の変哲もない、

そこら辺にあるものが、

ある瞬間からとても大切なものに変わる


みなさまもご経験あるのではないでしょうか??


2年前の今日、

気持ち良く晴れ渡った空に

まるでデパートの屋上から

広告を御披露目する様に

アイキンのビニールシートを

心置きなく広げられた喜びの感覚が

再び甦り、

幸せな気持ちに浸っているゴヤです(^ー^)