期待は境界線の侵害
自己紹介は→こちら
こんにちは
はなえです
そろそろ小学校の夏休みも終わります(北海道は短いのです)
来週から学校です。
ちょっとホッとします。
学校大好きチーム、おうちにいると退屈を持て余しています(宿題は初日で終わらせるタイプの小学生チーム)
----------
さて
期待とは
期待という言葉はよく使いますが
タイトルの通り、期待とは境界線の侵害になります。
こうしてくれたらいいな
ですよね。
期待っていうのは、決定権が自分にない事柄に対して、そうなってほしいという望みを持つこと。
子どもが国立大に入ってほしい、とか
彼が私を大切にしてくれたらいいのにとか
決定権もなければ自分も努力せずに、望みだけ叶ってほしいのが期待。
願い、というのは境界線の侵害にはなりません。
願うことは自分の内側で行われることで、こうなったらいいなという結果を願っていますが、願いを申し出ることや、願いを受け入れる、というように、境界線の侵害をせずにできるのが願いです。
子どもの態度がこうあってほしい、というのも期待ですし
上司がこうあってほしい、というのも期待で
期待は境界線の侵害です。
他者に対してもやもやしているときに
「それは相手に期待しているんですね」というので
ハッとする方もいますし
その期待を当然のものとして、何が悪いのかと憤慨する方もいます。
夫が子育てに参加してほしいと期待するとか。
二人の子供ですから、両親ともに養育する責任があります。
しかし責任を負うことと、責任を負うことを期待することには違いがあります。
共働きで、夫婦ともに同程度に育児参加するという責任の負い方もありますし
未婚だけれど認知して十分な養育費を支払うという責任の負い方もありますし
収入を得る役割と専業主婦という役割分担をする責任の負い方もありますし
それは家庭それぞれでいいんです。
でもこうあるべき、を押し付けることはできませんし、それをするならイライラするでしょう。
自分だけ我慢しなさいっていう意味でもありません。
どうかかわり、どう自分の欲しい結果を境界線の外側から働きかけるか、ということです。
こうなったらいいなあと、願う時に
ただじっと待って願うだけの人もいますが
願いをかなえるために自ら動いていく人もいます
願うなら動くことも必要ですね。
たとえば高校生がお小遣いが欲しいと願ったときに
自分からアルバイトを探し始めるのは願いをかなえる行動。
バイト禁止の高校なら親と交渉するのも願いをかなえる行動。
妻の尊敬が欲しいときに、俺を尊敬しろ!という無意識の行動に出るよりも、自分は尊敬されたいんだなっていう願いを知るならば、尊敬されるべくふるまう方法を学ぶでしょうね。
自分の中にあるものが、願いなのか期待なのか
区別がつきますか?
もし持っているのが期待だとして、それを手放すのが難しいのであれば、境界線を整える必要がありますね。
👇各種申し込み
カウンセリング
2022年
怒らなくてよくなるグループワーク
怒りや不安などの感情に振り回されなくなるためのグループワーク
次回は7月25日を予定しています。