上画像は、太田橋。

 

 太田宿は中山道51番目の宿場町。太田川(木曽川)の右岸に位置する、渡津集落でした。

 秋里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)によれば、

 

太田川 驛の東にあり。舟わたしなり。木曽川の下流にて、早瀬なり。

 

 ただ、水谷敬「段丘上の渡津集落 美濃加茂市」によれば、

 

 河川状態の変化に伴って船乗り場が上流に移っていった。

 

 天明以前は祐泉寺の下流から対岸の渡集落であったものが、太田橋のやや下流から対岸の今渡へ渡河することとなり、

 

この船着き場の移動に伴って町並みも上流に向かって伸びていった。

 

ということになるようです。

 

 

 上画像は神明水神公園。

 

 

 法華経塚。

 

 

 続けては、新町木戸門跡。

 

 

 中山道を西進すると、祐泉寺が見えてきました。

 

 

 1800年頃には祐泉寺までだった町並みが、弘化二年(1845)年頃に新町ができ、町が東方に拡張したようです。

 

 

 上画像は、本町の「吉田家住宅主屋」(国登録有形文化財)。

 

 

 

 さらに、中山道を西に歩いていくと、

 

 

旧太田脇本陣林家住宅(国重要文化財)が見えてきました。

 

 

 2階に卯建が上がる主屋は1769年の建築。

 

 

 主屋の観覧は要予約とのことでしたが、

 

 

隣接する隠居家は公開されていました。

 

 

 続けては、旧太田宿本陣門。

 

 

 屋敷は失われていますが、皇女和宮が宿泊した際、新築されたものだそうでう。

 

 

 中山道会館で休憩した後は、

 

 

虚空蔵堂から、

 

 

再び木曽川の堤防に出て、次の鵜沼宿に向かいました。

 

 

*伊藤安男編著『地図で読む岐阜』(古今書院、1999年)