(前回「旧中山道:美江寺宿より河渡宿へ」より続く)

 

 

 河渡宿から、河渡橋で長良川を渡ります。

 

 対岸の鏡島も、歴史ある河湊。

 

 例えば、関白一条兼良の紀行文『藤川の記』*を見ると、

 

 六日の早朝 垂井を立ちぬ。(略)七つ打つ程に鏡島の小庵につく

 (略)

 二十日 歸南せんとす。今日すなはち、鏡島を立ちて、もとの道を歴て垂井に至る。

 

 彼も幾日かを、この鏡島で過ごしたということになるでしょうか。

 

 

 江戸時代の鏡島は、上流部の山県郡や武儀郡から運ばれてくる物資の中継地。

 また、下流から遡行してきた船荷は、ここで陸揚げされ、人馬で岐阜まで運ばれていました**。

 

 荷としてはで、元禄四年(1691)で、灰・竹皮・酒・炭・紙・木材などが多く、明治二年(1869)では薪・板・瓦・紙米などが上位を占めていたそうです**。

 

 

 上画像は、1935年に建てられた旧鏡島郵便局の建物をそのまま利用しているという、鏡島西の洋品店「寿和屋」***。

 

 

 続けて上画像は、大正二年(1913)築の古民家を改装したという、「古民家カフェ湊珈琲」。

 

 『木曽路名所圖會』(1805年)によれば、

 

 河渡川をわたりて、湊村を経て鏡島の乙津寺を拝し、本庄の中、たらわ村にて憩ひ、名物の餅を賞味して、是より筋違に行き、御園に出でゝ岐阜にいたる。

 

 『壬戌紀行』(1802年)*によれば、

 

 だらり村、本庄村をこえて、一里塚あり、やうやう加納の驛につく。

 

ということで。旧本庄村をこえ、加納宿へ。

 

 

 加納宿は、21の町からなる細長い町。

 

 

 大田南畝『壬戌紀行』*に、

 

 やうやう加納驛につく、城下長くして人家多し。左の方に城ありと見ゆ。

 

と書かれるように、中山道の宿驛であると同時に、城下町でもありました。

 

 蜀山人は、加納宿の「竹屋」で宿をとったようですが、

 

 

 私は、駅前の加納栄町通に出たところで左折。

 

  

 

 岐阜駅で、遅い昼食を摂り、帰途に就きました。

 

*『續〃紀行文集』(博文館、1901年)

 

**伊藤安男編著『地図で読む岐阜 飛山濃水の風土』

 

***2022年9月11日付中日新聞web「<岐阜・鏡島まるけ>寿和屋