(前回「中山道:垂井から青野へ」より続く)
県道216号赤坂垂井線を横断し、青墓町に入りました。
青墓は、秋里籬島『木曽路名所圖會』(文化二年)*に、
青墓里 むかしは驛なり。
と書かれているように、かつての宿駅。
また、『梁塵秘抄口伝集』巻十**に、
ある人の申していふ、「さほのあこ丸として青墓の者、歌あまた知りたる上手、このほど上りたり」と申す。
(略)
墨俣・青墓の君ども数多呼び集めて、やうやうの歌を尽くしけるに、
(略)
江口・神崎の君、青墓・墨俣の者、集ひてありしに、今様の談義ありて、様々の歌沙汰、少々はうたひなどせしほどに
とあるように、「今様」で知られたところでした。
『海道記』***に、
昔、青墓の宿の君女、此の山を越えける時、山神、翁に化して歌を教へたり。足柄と云ふは此なり。
あるいは、飛鳥井雅経「明日香井集」****にも、
吾妻へ下るとてあをはかの宿にてあそひて侍ける傀儡のほるとてたつねけれはみまかりけるよし申をきヽて
尋はやいつれの草の下ならむ名はおほかたのあをはかの里
と記述があります。
ただ、その孫の飛鳥井雅有「春の深山路」***によれば、
青墓の宿は昔その名高き里なれど、今は家も少なう、遊女もなかめり。故宰相の「名は大方の青墓の里」と詠み給へりしも、げにはかなく、跡とも見えず。
昔は名高き里ではあったが、今は家も少なく遊女もなく、跡も見えなかった。
そして、秋里籬島『木曽路名所圖會』(文化二年)*によれば、
今は小里となりぬ。青墓の長の第跡あり。
「小里」となっていたようです。
ところで、青墓は源氏ゆかりの地でもあって、『平治物語』*****を見ると、。
美濃國青墓の宿に、大炊と申す遊君は、頭殿年来の御宿の主なり。その原に姫一人まします。この屋に着かせたまひぬ。鎌田兵衛も、今様唄ひの延壽が許に着き候ひぬ。
平治の乱で破れた源義朝は、美濃國青墓の宿の大炊の許にしばらく滞在した。
下巻の「頼朝青墓に下着の事」にも。
事故なく、青墓の宿に入れ奉る。
源頼朝も、青墓の宿に入ったということになるようです。
ところで、上画像は、「青墓の芦竹庵」。
現地にたつ大垣市立青墓小学校の案内板によれば、義経伝説の地で、
挿しおくも形見となれや後の代に源氏榮えば芦竹となれ
という歌を詠み、奥州へ落ちのびたようです。
さて、青墓から、旧中山道を東に歩き、昼飯の集落に入りました。
現地に立つ、大垣市立青墓小学校の案内板によれば、読みは「ひるい」で、「ひるいい」の「い」の字が略されたもの。
左下の一等水準点の標高は、23.1mです。
この昼飯村の庄屋や戸長を勤めたのが早野家で、現在は岐阜大学の「旧早野邸セミナーハウス」。
長屋門があり、
1887年建築という母屋は、切妻造。
母屋の中には、昼飯大塚古墳の出土遺物が展示されていました。
上画像は昼飯大塚古墳(2019年12月撮影)と、
その案内板です。
さて、旧中山道に戻り、さらに東に歩いて行くと、
旧西濃鉄道昼飯線の廃線跡。
晝飯(不破郡青墓村大字晝飯)~美濃赤坂(國有鐵道既設駅)間一哩二分が、貨物運輸営業を開始したのは、1928年12月17日******。
「廃止」になったのは、2006年3月です*******。
続いては「兜塚」。
『木曽路名所圖會』巻二によれば、
甲塚 晝飯村にあり 戦死の塚なり
現地に立つ案内板によれば、中村一榮の家老であり、杭瀬川の戦いで戦死した野一色頼母(助義)の遺骸を、兜や鎧とともに葬ったようです。
兜塚を見たところで、現地に立つ案内番に従い、旧中山道の宿場町「赤坂」に向かいました。
*大日本名所圖會刊行會(1919年)
**『新潮日本古典集成 梁塵秘抄』(1979年)
***『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』(小学館、1994年)
****塙保己一 編『群書類従第九輯』(経済雑誌社、1894年)
*****『新編日本古典文学全集41 将門記 陸奥話記 保元物語 平治物語』(小学館、2002年)
******『官報』1928年12月24日。
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