上画像は、岐阜市加納八幡町の石碑「鏡」。
花筒を見ると、左右に「鏡岩」「妙壽寺」、台座には「鏡岩濱之助」とあるので、ここはかつての妙寿寺跡。鏡岩濱之助の建立ということになるでしょうか。
また、道標の文字は「江戸木曽路」「東海道いせ路」、
側面には「天保十二年辛丑十一月 鏡岩濱之助」「建之」。
修復された形跡があり、台座も補強されているので、移設された可能性もあるのでしょうが、手前の交差点がかつての木曽路(中山道)と、熱田で東海道いせ路に合流する岐阜街道(笠松街道・御鮨街道)との分岐点でした。
岐阜市『岐阜市史』(1928年)によれば、
徳川家康岐阜城を毀ち、加納に奥平氏を封じ、次で、岐阜奉行を置いて、名古屋藩領に属せしめてから、今日の笠松街道が出來た。
笠松街道は、御鮨街道とも言われ、
此街道は、美園町より南方加納に出て、八丁畷を通つて、笠松を経、木曾川を渡り、黒田・一ノ宮を経て、名古屋に達する道路であって、俗称にお鮨街道とも云ひ、鮎鮨進献に通った街道である。
かつて、鮎鮨が将軍家に献上される際に、通った街道でもありました。
さて、木曽川の旧河道とされる境川の自然堤防である八丁畷を通って、笠松宿に入ると、
下新町に、「鮎鮨街道・笠松問屋跡」。
笠松町歴史未来館を見学したら、1Fの常設展示室に、高嶋久右衛門家の文書「鮎鮨宿次文書」が展示されていました。
続けては下本町の、国登録有形文化財の「杉山家住宅主屋」。
濃尾地震(1891年)後の建築とのことですが、往時を偲ばせる、町屋造りの建築です。
さて、さらに岐阜街道(笠松街道・鮎鮨街道)を南下すると、木曽川に出ました。
現地に立つ笠松町の案内板「笠松湊」によれば、ここはかつての渡船場。
堤防から下る坂道には、1878年に改修されたものとのことではありますが、
長さ114mという石畳があり、史跡として岐阜県指定の文化財です。
さて、現代の私は、渡しという訳にはいかず、県道14号岐阜稲沢線の木曽川橋を渡り、対岸の愛知県一宮市に向かいました。
上画像は、同橋から上流方向を見たもの。見えているのは、名鉄名古屋本線の木曽川橋梁です。