先日、岐阜街道を一宮駅まで歩いてみました。
この日のスタートはJR岐阜駅。
駅前から加納栄町通りを南下し、
まずは、中山道に入ります。
大田南畝『壬戌紀行』(1802年)*に、
やうやう加納の驛につく。城下長くして人家多し
穐里籬島『木曽路名所圖會』(1805年)にも、
加納 鵜沼まで四里八町。當城主永井侯三萬二千石を領せらる。町長し。又商人多し。岐阜へ一里。町續なり。
と書かれるように、加納は城下町であるとともに、中山道の宿駅。町並み長く商人も多く。岐阜とも町続きでした。
上画像は脇本陣跡。
続けては、西問屋跡。
本陣跡。
国道157号線を横断すると、
当分本陣跡。
二文字屋。
加納宿まちづくり交流センター。
加納城大手門跡。
大田南畝『壬戌紀行』(1802年)*を見ると、
城門を右にし橋を渡りて左りに曲りゆく、左に社あり、右岐阜道左中山道といへる石表たてり。右に曲がりつゝ行けば、
城門跡の石標を右に曲がり、橋を渡ると、左に辻があり、
「左中山道」という「石表」が立っていました。
ここを直進すれば「岐阜道」なのでしょうが、「右に曲がりつゝ行けば」が旧中山道。
大田南畝『壬戌紀行』(1802年)*を続けて見ると、
木戸を出て右にまかり土橋をわたりて右へ曲る、又、土橋をある川を渡り、右に熱田への道あり。
東番所跡を過ぎると、右左折を繰り返すことになるのですが、茶所駅の手前を右折、
「右に熱田への道」に入ると、上画像の道標。
表面には「東海道いせ路」、側面には「天保十二年辛丑十一月鏡岩濱之助」が「建之」と彫られていました。
*『蜀山人全集 巻一』(吉川弘文館、1907年)