上画像は井上通女「歸家日記」*(1689年)の挿画。

 

 新居へとて、今切のわたり舟よばせてわたる。風いとはげし。ほどなく岸にいたりつきて、爰にても叉番し給ふ所によりて御印奉り、例の女よび出て、我もぐせる女も、髪ねんごろに見せて、いづくもたがひなしとて、益本が姓名などたづね聞て、とをし給つ。

 

 新居には「番し給ふ所」があり、「例の女」が、いわゆる「入鉄炮出女」の「出女」ということになるので、髪をねんごろに見ていたようです。

 

 また、挿図に描かれているように、かつては湖岸に面し、船着き場がありました。

 

 大田南畝「改元紀行」**(1801年)にも、

 

 舟さし出るに、さながら海とも思ひわかす。(略)むかひに人家の如きものみゆるは、荒井の御關所なり、などきくもたのもしく、とかくするまに、はやむかひの河原につく、ここにて従者をもめし具して 輿より下り、御關所の前をすく

 

と書かれています。

 ただ、清河八郎「西游草」(1855年)***巻の九に、

 

 新井は昨年の津波にて大破損いたし、土堤もきれ、番所もつぶれ、入海も五、六尺深く相成、潮も殊の外難儀に相成けるゆへ、公儀より万金の普請あれども、一向とどまらず、今にいたる迄舟の往来甚だ難渋とぞ。

 

とあるように、1854年の津波で破損。

 現在地に移転しました*****。  

 

 

 上画像は、現在の新居関所。

 

 

関所の建物としては、全国で唯一現存するものであり*****、

 

 

国の特別史跡です。

 

 

 また、大御門や、

 

 

高札場も復元されています。

 

 

 木戸しまる音や荒井の夕千鳥 炭太祇****

 

 千鳥は冬の季語。荒井(新居)の関所の木戸は、夕方の何時に閉まったのでしょうか。

 

 

 さて、新居関跡から、旧東海道を西進すろと、旅籠「紀伊国屋」。

 

 火災に遭い、明治初期に建て替えられたものの、江戸時代の旅籠の様式を残しており、湖西市の指定文化財です*****。

 

 

 さらに西進すると、突き当りの民家に「飯田武兵衛本陣跡」の案内板。、

 

 

 このT字路を左折し、南進すると、

 

 

一里塚跡の看板があり、

 

 

「棒鼻跡」に出ました。

 ここが新居宿の西端。かつては土塁が突き出て、枡形をなしていたそうです。

 

*『井上通女全集』(吉川弘文館、1907年)

**『蜀山人全集』(吉川弘文館、1907年)

***『西遊草』(岩波文庫、1993年)

****『太祇句集』(天青堂、1926年)

*****新居関所・新居関所史料館のパンフレット