JIA三重『三重の建築散歩-歴史を語る建造物とまちなみ50選』(月兎舎、2013年)の「45 斎宮 多気郡明和町」によれば、
参宮街道の「代表的な風景は、街道に沿って軒を揃えた平入の家構え」で、
「通り沿いの主屋の隣に土蔵を構えている家も多く見受けられる」。
「一階の軒先には軒雁木板」が付けられ、
「採光と防犯を兼ね備えた格子戸も特徴的だ」。
さて、そのような古い町家が見られる旧参宮道を、斎宮から明星、明野に向かいます。
『伊勢参宮名所圖會』(1797年)に、
斎宮村 金剛坂のつゞき 舊名鳥墓村 昔斎宮ありし故に號く。土産菅笠を製す、斎宮笠といふ。
(略)
上野村 俗に明星といふ。斎宮村のつゞき ゆたのゝの内にて、今の街道なり 〇中明星 新明星
(略)
明野の原 新明星の東一面に明野なり。むかしは東明星中明星も野なり。廣き事前にいふごとし。
と書かれるように、斎宮村から明野の原までの間には、明星(上野村)⇒中明星⇒新明星(東明星)と、「明星」が続いていました。
上画像は、『伊勢参宮細見大全』(1766年)より「斎宮村」。
当時は、平入の入母屋で、藁ぶき屋根の街村だったようです。
次いでは、同大全より、「明星茶屋」(上画像)。
上野村 本明星とも云茶店多し
中明星 茶店有
と書かれているので、本明星、中明星とも茶店が有り、
新明星 上り下り立場新茶屋とも云(略)茶店多し。宿駅ならねども客舎有
特に、新明星(新茶屋)は立場で、茶店が多く、宿駅ではないものの、客舎もあったようです。
江戸時代の道中日記を見ても、例えば、手中敏景『伊勢道中日記』(1841)*に、
松坂宿ニ休ミ、中食ヲ遣、くしたニ掛、新茶屋ニ七ツ半過ニ着仕
と、往路は新茶屋で、
明星田口屋利兵衛方ニ■泊り
復路は、明星で泊っています。
さて、今日最後は、旧参宮道(伊勢街道)斎宮~明野間に残る遺構の画像をご覧下さい。
近鉄斎宮駅から参宮道(伊勢街道)に出て、東に進むと、左手に見えてくるのが、上画像の道標。
左を流れる「エンマ川」は、榎村寛之『斎宮-伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書、2017年)によれば、斎宮の碁盤の目状の区画、方格地割の東端の南北道路の西側側溝だったようです。
続けては、「有明六地蔵」の案内板。 斎宮中町公民館の敷地は、かつての「地蔵院」で、
明治初めの廃仏毀釈により、廃寺となったものの、
残された「六地蔵石幢」は、「永正十癸酉」(1513年)の銘があり、県指定の有形文化財です。
300m程東には、「斎宮旧蹟蛭澤之花園」(左)、「斎王隆子女子御墓 従是拾五丁」の標石(右)。
榎村寛之前掲書によれば、在位969~974で、章明親王の娘(醍醐皇孫)です。
新茶屋を出ると、「従是外宮二里」の道標。
側面の文字は「宮川江一り」。
徐々に宮川が近づいてきました。
明野の集落に入ると、「明野庚申前」の信号の角に、庚申堂(右後方)、木碑(中央)と石碑(左前方)。
木碑に書かれた文字は「南無阿弥陀佛 為本蓮社願誉上人徳浄大和尚荘厳浄土供養之塔」なので、浄土宗の伊藤唯真門主(知恩院第88世門跡)が、ここで徳浄和尚の供養をされた、と読んで、いいのでしょうか?
また、石碑に刻まれた文字は、竿石が「南無阿弥陀佛」で、台石が「三界萬霊」なのですが、
現地にある伊勢市教育委員会の案内板によれば、「徳浄上人千日祈願の塔」。
宇治山田や明野の人々が、上人の徳を称え、建立したもののようです。
*西和夫『伊勢道中日記 旅する大工棟梁』(平凡社、1999年)