松阪市宇気郷地区の飯福田(いぶた)町に、
「伊勢山上」こと、「飯福田寺」があります。
明和9(1772)年3月14日、この地を訪れたのが本居宣長。
彼の『菅笠日記』*を見ると、
下多氣にかゝりて。山をこえ。小川柚の原などいふ山里を過て。伊福田寺にまうづ。
吉野からの帰途、下多気、小川、柚原などという山里を過ぎて、
こゝはすこし北の山陰へまはる所にて。道のゆくてにはあらねど。
道の行く手ではなかったけれども、北の山陰へまわり、飯福田寺に詣でたようです。
御嶽になずらへて。さうじなどしつゝ。國人のまうづる所にて。かねてきゝわたりつるを。よきついでなれば。まはりてまうづる也けり。
「御嶽」というのは、おそらくは大和の大峯山上**。それになぞらえて、精進などしつつ、国の人の詣でる所と、かねて聞いていたのを、良いついでなので、回り道をして詣でた。
山は淺けれど。いと大きなる岩ほなど有て。谷水もいさぎよく。世ばなれたる所のさまなり。
山は浅いけれど、大きな岩があって、世離れしたさまだったようです。
さて、受付にて記帳し、入山料500円をお納めし、
、
石段を上ると、薬師堂。
その裏手を登っていくと、岩屋本堂と、
「鐘掛」。
ここから尾根筋に出て、しばらく上り下りを繰り返すと、
「鞍掛岩」
そして、「小尻返し」。
安岡親毅『勢陽五鈴遺響』(1833年)の一志郡で「國峯山飯福田寺」を見ると、
郷俗及隣民飯福田山上ト稱シ大倭州吉野ニ比シ精進潔斎ノ詣人多シ巨嵒ニ銕鎖ヲ垂テ鐘掛不動岩等ノ名アリ
飯福田山上と称し、精進潔斎の詣人も多かったようです。
*『本居宣長全集第18巻』(筑摩書房、1973年)
**『本居宣長全集第16巻』(筑摩書房、1974年)所収の「日記(寶暦二年迄之記)」の寛保二(1742)年に、「七月参詣大峯山上也」という記述があります。