安楽越は、旧伊勢・近江国境の峠道。
小瀬甫庵『太閤記』*巻五の「北伊勢表進発付柳瀬合戦之事」に、
秀吉卿遠慮し給ふやうは、残雪深き中に先滝川左近将監を推詰、蟄居させ、(略)正月廿三日江南に着陣し、惣軍勢七万余騎を三手に分給ひ、土岐多羅口より乱入し給ふは、羽柴美濃守、筒井順慶、伊藤掃部助、氏家左京亮、稲葉伊与守、其勢二万五千也。
君畑越より押入勢は、三好孫七郎殿、中村孫平次、堀尾茂助、其勢二万余騎也。秀吉は三万余騎を引卒し、安楽越にかゝつて乱入し給ふに
とあるので、天正十一(1583)年正月、残雪深き中、滝川一益を攻めるべく、秀吉が三万余りの兵を率いて、江州から、安楽越にかかって勢州に乱入した、ということになります。
また、木村至宏編『近江の峠道』(サンライズ出版、2007年)からの孫引きになってしまうのですが、同年五月、松永貞徳の日記に、
鈴鹿越は塞りて、安楽越をせしに、あけび原という山中にとまりて
とあるということなので、当時、安楽越は、鈴鹿越の間道として、用いられていたのかもしれません。
江戸時代の地誌を見ると、寒川辰清 『近江輿地志略』(1734年)巻之五十三の「甲賀郡」に、
〔安樂越〕山女原村より伊勢國安樂村へ出る路なり。土山より國境へ二里、國界より桑名へ十二里。
安岡親毅 『勢陽五鈴遺響』(1833年)の「鈴鹿郡」にも、
山路嶮難ナリ安樂越ト稱ス
と書かれています。
安楽越は、近江国甲賀郡の山女原村と、伊勢国の鈴鹿郡安楽村を結んでいました。
かつての山路は嶮しい難路だったのでしょうが、
現在は、2008年に開通した新名神高速の鈴鹿トンネルが、安楽越の下を抜けていきます。
三重県側には、亀山市の石水渓キャンプ場があり、
また、石水渓~安楽越間は、東海自然歩道で、
距離は、4.1km。
渓谷沿いのアスファルト道を、
緩やかに登っていくと、
やがて、道はヘアピンカーブで、谷から離れるようになり、
キャンプ場から、1時間程で、安楽越に到着しました。
ここは近江と伊勢の旧国境であり、現在は滋賀県甲賀市と三重県亀山市との県境・市境であり、また、大阪湾に流れる淀川水系と、伊勢湾に流れる鈴鹿川水系の分水嶺でもあります。
*『新日本古典文学大系60 太閤記』(岩波書店、1996年)