(前回「松平城跡」より続く)

 

 松平城跡を見学した後、松平郷の史跡歩きに出かけました。

 

 

 桜のきれいな第一駐車場に車を入れ、まずは松平氏館跡へ。

 

 

 松平郷は、松平氏発祥の地で、

 

 

館跡には、西から南に、石垣と水堀。 

 

 

 松平城跡、高月院、大給城跡とともに、国の史跡「松平氏遺跡」です。

 

 

 現在は、正面に「松平東照宮」、右手に資料館である「松平郷館」で、

 

 

その奥に、八幡神社という配置。

 

 『松平村誌』(愛知縣東加茂郡松平村、1936年)を見てみると、

 

 村社八幡神社 八幡神社ハ松平郷ノ産土神ナリ、慶長ノ頃松平太郎左衛門尉尚榮、東照宮ヲ合祀ス、今ノ攝社東照宮是レナリ。

 

 八幡神社は、松平郷の産土神であり、東照宮はその摂社。そして、

 

 

 仝村社境内ニ在原氏及松平三代ノ産井戸ト云フアリ

 

と云う井戸があり,

 

 

松平氏が、産湯に使ったとの伝承があるようです。

 

 ところで、その松平氏の祖とされているのが、松平親氏。

 

 

 八幡神社から高月院へ向かう「松平郷園地」を歩いていたら、 「松平太郎左衛門親氏像」がありました。

 

 松平親氏は、大久保彦左衛門忠教の『三河物語』*によれば、

 

 御名ヲ徳阿弥ト奉申

 

という、時宗の僧で、

 

 松平之郷中に、太郎左衛門尉申て、 国中一之有徳なる人有りけるが、イカなる御縁ニカ有やらん、太郎左衛門尉独媛姫之有りけるを、徳阿弥殿を聟に取、一跡ニ立まいらする。

 

松平郷の、太郎左衛門の一人娘の聟になった。

 

 ただ、松平郷に来る前、西三河の坂井の郷中で足を休めた折にも、

 

 イタラヌ者に御情を懸させ給へバ、若君一人出来させ給ふ。

 

 そして、この出来た若君は、

 

 家之子にせんと仰あって、末えの世迄、乙名とならせ給ふ

 

ということで家臣にされ、後の酒井広親。

 江戸時代に譜代筆頭となる酒井氏の始祖とされる人物です。

 

 ただ、司馬遼太郎が、『街道をゆく43 濃尾参州記』(朝日文庫、1998年)の中で、

 

 徳阿弥の足跡は、お伽ばなしじみている

 

と書いているように、おとぎ話じみた印象の物語。

 

 三鬼清一郎編『県史23 愛知県の歴史』(山川出版社、2001年)によれば、

 

 戦国期の松平一族・譜代の系譜や事績については、子孫の徳川時代の考証で顕彰のための潤色が加えられた場合も多く、かえって史実がみえにくくなっており、同時代の確実な史料に基づいた検証が必要である。

 

という状況のようです。 

 

*『日本思想大系26 三河物語 葉隠』(岩波書店、1974年)