三重県多気郡多気町の丹生集落に、
「丹生神社」と「丹生山神宮寺」があります。
多気町のオフィシャルサイトを見ると、仁王門や、
本堂(上画像)、護摩堂、大師堂が、江戸時代の建築で「町指定文化財」。
「護摩堂」は、
不動明王が安置され、別名「不動堂」。
そこから、回廊のある石段を上がると、
「大師堂」がありました。
丹生山神宮寺は真言宗山階派で、通称「丹生大師」。
石段の下にも、弘法大師像が立っているのですが、私が気になったのは、その左の赤い大きな六角燈籠。
竿には「六地蔵堂」と彫られていました。
石段下の六体の石仏のうち、一番右の立像は、、赤いよだれかけをして額に白毫、左手に如意宝珠らしき持物。
右手の錫杖が欠損しているのですが、地蔵尊でしょうか。
丹生山で地蔵といえば、思い出されるのが、平安時代の説話集『地蔵菩薩霊験記』*の「水銀堀を助け給ふこと」。
伊勢國飯高郡に爲實と申す者有り(略)當國の目代水銀を掘する人夫に召されければ、是非なく丹生山の縣を水銀の爲にほりけるが、怪しき所を掘損じて由崩れて彼の人夫ども土中に埋まれ、深き事十丈ばかりあるらんとぞ覺ゆ。
と、「丹生山」の水銀が登場します。
伊勢国の目代が、飯高郡の爲實と申す者を、水銀掘の人夫として「丹生山」に徴発した。
しかるに、坑道が崩れ閉じ込められたので、地蔵菩薩に祈り奉ったところ、小僧が紙燭も持って現れ、命が助かった。
されば彼の丹生山にて水銀を掘る者は、先づ地蔵尊を造立するとぞ申し傳へたり。
そこで、水銀を掘る者は先ず地蔵尊を造立し奉った、という霊験譚です。
江戸時代の道煕晦巌述『地蔵菩薩感應傳 卷下』(1687年)**の「崖崩無恙」にも、
勢州飯高郡農人(略)衆奉公命取汞銀於丹生山忽山崩
と、同様の説話が書かれています。
丹生山神宮寺と、どのような関係があったのかはわかりませんが、
同寺には、水銀桶***が保存されているそうです。
(次回に続く)
*三井寺上座実睿, 沙門良観共編『地蔵菩薩霊験記』(藤井佐兵衛、1938年)
**早稲田大学図書館古典籍総合データベース
***伊藤長次郎 編『三重県薬業史』(ミエ薬報社、1940年)