国道307号の牧東交差点(ファミマの角)から、県道53号牧甲西線に入り、400mほど北に進むと、「紫香楽宮阯」と彫られた石標が見えてきます(上画像)。

 

 そして、この角を曲がり80m程で、数台の駐車スペースと、

 

 

「史跡紫香楽宮跡((寺院跡)内裏野地区)」という説明板。

 

 『滋賀縣史蹟調査報告. 第四冊 紫香樂宮阯の研究』 (滋賀縣保勝會、1931年)によれば、

 

 内裏野の遺跡は、前述のごとく雲井村大字黄瀬にあつて、小字名を拝志と呼ぶ。内裏野は一種の俗称である。

 

ということなので、俗称「内裏野」なのですが、内裏とは何とも思わせぶりな地名。

 

 寒川辰清『近江輿地志略』(1734年)は、「内裏野」について、

 

 黄瀬村にあり(略)土俗或は寺野ともいへり。相傳聖武天皇遷都の地なりと 按ずるに非なり

 

と書いていますから、聖武天皇遷都の地なりという伝承が、当時既にあったということがわかります。

 

 ただ、寒川辰清自身は、「非なり」と否定していて、

 

 土人の寺野と云ふは故あり、甲賀寺の跡なればなり。今に礎等處處に殘れり。土中を穿てば多く古瓦を得ることあり、甲賀寺の瓦なるべし。何れの日此寺廃せしにや詳ならず。

 

礎が所々に残り、瓦が出土することから、「甲賀寺」跡との主張です。

 

 甲賀寺は、『續日本紀』巻十五の天平十六(744)年の「十一月壬申」の項*に、

 

 甲賀寺ニ始テ盧舎那佛ノ體骨柱ヲ建ツ。天皇親臨。手ツカラ其ノ綱ヲ引キ玉フ。

 

とあるように、聖武天皇が自らその綱を引いて、廬舎那仏の造立を始めたところ。

 ただ、いつ廃寺になったかは、よくわからないようです。

 

 

 さて、東海自然歩道の道標に従い、0.1km先の「紫香楽宮跡」に向かいます。

 

 「紫香楽宮跡」は、1926年10月20日、内務省告示第158号を以て、「紫香樂宮阯」という名称で、国の「史蹟」に指定されました**。

 

 ただ、「滋賀縣保勝會」の委嘱を受け、宮阯の調査に従事した肥後和男は、

 

 奈良朝の遺跡にして、かくの如く礎石の多數遺存するものは、あまりないであらう。況んや宮阯として、かゝる例は全くその例を見ざるところである。

 

と思い、1929年秋、文部省に調査を新たにする必要があると上申。

 翌年1月、黒板勝美(当時:東京帝国大学教授)らの立ち会いの下、調査を実施し、

 

 この遺跡が示す形式を見ると、それら礎石群の配置は、正に奈良朝に於ける寺院の伽藍配置に一致するといはなければならない。

 

と結論づけるに至りました***。

 

 

 上画像は、滋賀縣保勝會前掲書より「調査隊一行(内裏野神社前)。

 

 内裏野神社は、黄瀬村民から“内裏野さん”と呼ばれた村社で、調査当時は西面していたようですが、

 

 

社殿が改築されたようで、現在は南面。

 

 鳥居の扁額は「紫香楽宮」です。        (次回に続く)

 

*『國史大系』第2巻(経済雑誌社、1897年)

 

**内閣印刷局『官報』第4248号(1926年10月20日)

 

***『滋賀縣史蹟調査報告. 第四冊 紫香樂宮阯の研究』 (滋賀縣保勝會、1931年)