上画像は、『新編日本山岳名著全集7』(三笠書房、1975年)。

 

 今日は桑原武夫『回想の山山』(1944年)の中から、「鈴鹿紀行」(1940年)を読んでみたいと思います。

 

 学生に、鈴鹿にいっしょにいきませんか、と誘われた。

 

 桑原武夫は当時、京都帝国大学文学部講師兼大阪高等学校教授です。

 

 前から訪れたかった銚子ガ口から愛知川へ下り、かつて登りそこねた釈迦岳をかたづけよう。私の古い地図には白滝谷からその中腹まで赤線がはいって、大正13年11月2日とある。

 

 大正13(1924)年11月当時、彼は旧制三高の学生でした。

 

 八日市で乗り換えた永源寺行きのバスは時々立ったままで足が床を離れるほどの超満員であった。

 

 おそらくは東海道線近江八幡駅で八日市鉄道に乗り換え、さらに八日市駅で、永源寺自動車の乗合自動車に乗り換えたのだろうと思います。

 

 相谷の村の家の軒下に「愛知川ハイキングコース」などという道標があった。

 

 その日は、河原でテント泊。

 

 朝めしを食べていると、いい日本犬をつれた炭焼きが通る。(略)ちょっとわかりにくいと聞いていたので「おかねさん(銚子ガ口のこと)」の登り口の様子をきくと、なにかしるしをしておこうという。(略)白い石の上に木炭で「おかね明神入口」と案外の達筆で書いてくれてあったところから本谷と別れる。

 

 当時、地元で銚子ガ口岳は、「おかね明神」と呼ばれていたようです。

 

 北に船のような御池岳、南に例の特徴のある大ガレをもつ雨乞岳、正面に釈迦岳、私はこわれかけた銚子ガ口三角点の下に腰をおろしてじっと眺めていた。

 

 銚子が口からはジュルミチ谷を下り、愛知川へ。

 

 釈迦の登路について教示を受け、二つある小屋の一つを貸してもらう。

 

炭焼き小屋を貸してもらい一泊。

 

 明くる朝も早立ちで、豆ノ木谷をのぼりつめる。あとは尾根伝い、道の痕跡がないとはいえぬが、それで楽ができるようなものではなかった。

 

 藪漕ぎが待ち受けていたようです。

 

 私はめがねをはね飛ばされたりする醜態を演じながらも、この日好んで先頭に立った。

 釈迦の三角点を踏んだ時はうれしかった。万歳を三唱する時に振りすぎて帽子のひもが飛んだりしたが別に恥ずかしくもない。水晶岳への尾根に白く朝明川の大ガレが見える。あのやぶのあたりは十六年前の悪戦苦闘のあとだ。しかしいま万歳を唱えた高等学校山岳部の学校名さえ変えれば、その年数は無のような気がする。

 

 高等学校山岳部ということなので、この山行は大阪高等学校の学生と一緒だったということになるでしょうか。自分が三高の学生だった16年前が思い出されたようです。

 

 相変わらず三角点は一応足で踏まえてみたいし

 

 

 上画像は、今年3月撮影の釈迦ヶ岳三角点。

 

 今から80年ほど前、不幸にも、桑原武夫氏の足で踏まれた過去があるようです。