(前回「霊山の山頂で」より続く)
霊山から下山した後、同じ伊賀市にある「新大仏寺」に寄ってみました。
同寺は、松尾芭蕉が「笈の小文」*で、
伊賀の國阿波の庄といふ所に俊乗上人の旧跡有。護法山新大仏とかや云、
また、「伊賀新大仏之記」*で、
伊賀の国阿波の庄に新大仏といふあり。此ところはならの都東大寺のひじり俊乗上人の旧跡なり。
と書いているように、東大寺を再建したことで知られる、俊乗房重源の旧跡。
大門の扁額は「東大寺 伊賀別所」です。
ただ、貞享五(1688)年二月、芭蕉がこの新大仏寺を訪れた当時は、かなり荒廃していたようで、、「笈の小文」*に
名ばかりは千歳の形見となりて、伽藍は破れて礎を殘し、坊舎は絶て田畑と名の替り、丈六の尊像は苔の縁に埋て(略)石の連臺・獅子の座などは、蓬・葎の上に堆ク、双林の枯たる跡も、まのあたりにこそ覺えられけれ。
丈六にかげろふ高し石の上
と書いています。
、「伊賀新大仏之記」*に、
上人の御影をあがめ置きたる草堂
とあるので、「上人堂」(上画像)は既に再建されていたのでしょうが、
「大仏殿」(上画像)は延享五(1748)年の上棟**だそうです。
上画像は、境内にあった、松尾芭蕉の文学碑「丈六塚」。
残念ながら摩耗していて、「丈」「高」「上」「芭」「靑」などと、断片的にしか読み取れなかったのですが、
丈六塚 丈六に陽炎高し石の上
芭蕉の俳文「新大仏寺記」の全文を刻んだもので、安永九(1780)年の建立と、説明がありました。
服部土芳「三冊子」***をみると、
丈六のかげろふ高し石の上
かげろふに俤つくれ石のうへ
此句、當國大佛の句也。人にも吟じ聞せて、自も再吟有て、丈六の方に定る也。
『新潮日本古典集成 芭蕉句集』(新潮社、1982年)では、
昔、この石の台座に立たせ給うた丈六の尊像は,跡形もない。ただ空しい台座の上に丈六仏の背丈ほども高く燃え立つ陽炎が,いまはなき尊像の面影を幻のように偲ばせるばかりである。
季語は「陽炎」で、春。
芭蕉は、石の上に立つ陽炎に、かつての大仏の俤(面影)を見たのかも知れません。
*『芭蕉紀行文集』(岩波文庫、1971年)
**佐々木弥四郎『伊賀史の研究三十年』(伊賀史談會、1937年)
***『去来抄・三冊子・旅寝論』(ワイド版岩波文庫、1993年)