「甲斐の白根」 が登場する文学作品で最も有名なものといったら、やはり「平家物語」でしょうか。

 

 名文として知られる巻十の「海道下」(かいだうくだり)*に、

 

 手ごしを過ぎてゆけば、北に遠ざかッて雪しろき山あり、とへば甲斐のしらねといふ。其時、三位中将落つる涙を押さへてかうぞ思ひつゞけたまふ。

 

おしからぬ命なれどもけふまでぞつれなきかひのしらねをもみつ

(惜しくもない命であるが、今日までおめおめと生きながらえて来たかいがあって、、甲斐の白根山を見ることができたことよ) 、

 

という一節があります。

 

 これは、承応二年(1223)、東海道を下った作者不詳の紀行文『海道記』**を踏まえたもの。

 

 北ニ遠ザカリテ雪白キ山アリ。トヘバ甲斐ノ白峰トイフ。年来聞シ所、命アレバ見ツ。(略)

 

 惜カラヌ命ナレドモ今日アレバ生タルカヒノシラネヲモミツ

(惜しくもない命ではあるが、今日まで生きていたからこそのかいがあって甲斐の白根をも見たのだ。)

 

 「年来聞シ所」ということなので、歌枕の地として、当時既にある程度の知名度があったのかもしれません。

 

 遠江に下向した安嘉門院四条の手記『うたゝね』**には、「甲斐の白根」と「富士の山」が登場します。

 

 富士の山は、たゞこゝもとにとぞ見ゆる。雪いと白くて、風になびく煙の末も夢の前にあはれなれど(略)甲斐の白根も、いと白く見渡されたる。

 

 当時、富士山は噴煙を上げていたようです。

 

 さて、『海道記』や『平家物語』『うたゝね』は、東海道から見た「甲斐の白根」。

 

 ただ、深田久弥は『日本百名山』(新潮社、1964年)の「北岳」で、

 

 私はかつて冬のよく晴れた一日、その駿河の「手ごしをすぎ」たあたりまで、山を見に行ったことがある。富士山の西側を通して遥か遠く白銀に光る山を眺めた。しかしそれは北岳ではなかった。もっと手前の赤石岳や悪沢岳であった。

 

と書いているように、三位中将や安嘉門院四条が見た「甲斐の白峰」は、実は「甲斐」ではなく、駿河・信濃国境の赤石岳や荒川岳だったかもしれません。

 

 それに対し、甲斐国から見た「白根」を詠んだのが、室町時代の『廻國雑記』***。

 

 文明18年(1486)から19年にかけて、東国から陸奥を廻った、聖護院門跡道興准后の紀行文です。

 

 花藏坊と云へる山伏の所に、十日はかり留まりけるに、武田刑部大輔禮に來り侍りき。盃とり出して暫く遊覽し侍りければ、愚詠を所望しければ、翌日使を遣はすついでに、

  消えのこる雪の白根を花とみてかひある山の春の色かな

 

 この武田刑部大輔は、武田信玄の曽祖父武田信昌でしょうか。

 

 『山梨県埋蔵文化財センター調査報告書第 260 集 山梨県内中世寺院分布調査報告書』(山梨県教育委員会、2009年3月)に、次のような記述があります。

 

 文明19 年(1487)に聖護院道興が入峡する。道興は京都聖護院門跡を相続し、同時に熊野三山の新熊野検校職を兼帯し、園域寺長吏も兼ねるなど天台系修験の最高の権力者であった。
  『廻国雑記』(『山梨県史』資料紀六中世三下)を見ると道興が諸国を巡錫している。甲州にあっても岩殿山七社権現をはじめ、柏尾山大善寺を経て石和の市部の花蔵坊に至り十日ほど滞在している。

 

 花蔵坊は、石和の市部にいたようです。

 

 ところで、石和(現山梨県笛吹市)から見た「消えのこる雪の白根」とは、いったい、どこの峰だったのでしょうか。

 

 

*『新日本古典文学大系45 平家物語(下)』(岩波書店、1993年)

 

**『新日本古典文学大系51 中世日記紀行集』(岩波書店、1990年)

 

***『日記紀行集』(有朋堂書店、大正11年)