文化11年(1814)に成立した『甲斐国志』*第三十三巻 山川部第十四は、次のように書いています。

 

 白峯 此山本州第一ノ高山ニシテ西方ノ鎮タリ國風ニ所詠ノ甲斐根是ニシテ白根、夕照ハ八景ノ一ナリ南北ニ連リテ三峯アリ

 

 「白峯」は、(甲斐国の)西方の鎮であり、南北に連なって三峯あり、ということなので、これは、赤石山脈の白根三山ということになるでしょうか。

 

 ただ、「白峯」を「本州第一ノ高山ニシテ」というのはともかくとして、国風(和歌)に詠む所の「甲斐根是ニシテ」と限定するのも、無理があるような気がします。

 

 『広辞苑』を引いてみると、

 

かいがね【甲斐が根・甲斐が嶺】甲斐国(山梨県)の高山。富士山または赤石山脈の支脈をいう。古今東歌「―をさやにも見しが」。

 

 『日本国語大辞典』では、

 

 かいがね【甲斐嶺】〔名〕甲斐国(山梨県)にある高山。特に富士山または白根山をさすとの説もある。*貫之集-五「かゐがねの山里見ればあしたずの命を持たる人ぞ住みける」。*俳諧続虚栗-秋「甲斐がねも見直す秋の夕哉」*俳諧蕪村句集-春「甲斐がねに雲こそかかれ梨の花」

 

 「甲斐が根(嶺)」については、少なくとも「甲斐国の高山「赤石山脈の支脈」「富士山」「白根山」の4通りぐらいの意味は、ありそうです。

 

 例えば、平安中期の歌人能因法師の私家集『能因集』**に、

 

  なすべきことありて、またみちのくにくだるに、はるかにかひのしらねのみゆるを見て

 

 かひがねに雪のふれか白雲かはるけきほどは分ぞかねつる

(甲斐の白根山には雪が降っているのだろうか、それとも白雲がかかっているのだろうか。遠くに隔たっていて見分けるのができないことだ)

 

とあります。

 

 遥かに甲斐の白根を見て、という詞書で、初句が「かひがねに」ですから、能因法師は、「かひがね」を「甲斐の白根」と理解していたのだろうと思います。 

 

 ただ、このように「甲斐が根(嶺)」が指しているものを特定できる例は、あまりありません。 

 

 『新日本古典文学大系8 後拾遺和歌集』(岩波書店、1994年)の「地名索引」によれば、歌詞としての「甲斐嶺(かいがね)」は「古今初出」。

 

 そこで、『新日本古典文学大系5 古今和歌集』(岩波書店、1989年)を見てみると、「巻第二十 東歌」の歌番号1097・1098に、次のような歌がありました。

 

 甲斐歌

 

 甲斐が嶺をさやにもみしかけゝれなく横ほり伏せるさやの中山

(甲斐国の峰々をはっきり見たい。心ないことに、伏し横たわって眺望をさまたげているさやの中山よ)

 

 甲斐が嶺を嶺こし山こし吹風を人にもがもや言づてやらむ

(峰を越し山を越して甲斐国の峰々を吹くこの風が人間であってほしいなあ。そうすれば言伝てしてやろうと思う)

 

 脚注に、「山の名とする説もある」とあるので、詠み人知らずのこの歌に言う「甲斐が嶺」は、「甲斐国の峰々」という意味かも知れず、ある特定の「山の名」かもしれず、ということになるでしょうか。

 

 古今集の撰者として知られる紀貫之の私家集『貫之集』***の第二に、

 

  延喜二年左の大臣の北の方の御屏風の歌十首

甲斐がねの山里みれば葦鶴の命をもたる人ぞ住みける

 

第九にも、

 

  忠岑がもとに

甲斐がねのまつに年ふる君故に我は嘆きと成ぬべら也

 

 ここで言う「甲斐がね」は、「甲斐国の峰々」という意味でしょうか、それともどこか特定の「山の名」でしょうか。


 十番目の勅選和歌集である『続後撰和歌集』****の「巻第十九 羇旅歌」より

 

  神無月の頃あづまの方へまかりけるにさやの中山にて時雨

  のしければよめる                    

                                蓮生法師 

かひがねははや雪しろし神な月しぐれて過るさやの中山

                                

は、古今和歌集の歌番号1097の派生歌ということになるのでしょうが、旧東海道の「さやの中山」から、神無月にして早くも雪白き「かひがね」が見えたようです。

 

 「さやの中山」が遠江の歌枕であるように、「甲斐がね」も歌枕と言ってよいかもしれません。

 

 続けては、平安中期の歌人源重之の私家集「源重之集」***の「冬二十首」より

 

 信濃なる否には非ず甲斐が嶺に積れる雪のとけむ程迄

 

 甲斐が嶺は、甲斐の高山ですから、雪解けも遅かったのだろうと思います。

 

 また、先述の『能因集』**には他に二首あり、

 

 御坂路はこほりかしける甲斐が嶺のさらながさらす手作のごと

(御坂峠には氷が鋪きつめているのだろうか。甲斐の山は「さらな」が晒す手作りの白い布のようだ)

 

    甲斐にて、山なしの花を見て

 甲斐が嶺に咲きにけらしな足曳きのやまなしをかの山なしの花

(よりによって甲斐嶺に咲いたらしい。この山無しの岡の山なしの花が)

 

 脚注によれば、「山梨」に「山無し」の意をかけているようです。

 甲斐国の四郡の一つに「山梨郡」があり、山梨郡(現在は笛吹市)には山梨岡神社があります。

 

 話が長くなってしまったので、最後に先日読んだ「蕪村句集」*****より、「甲斐がね」の句をご覧下さい。

 

 「巻之上」の「春之部」より

 

 甲斐がねに雲こそかかれ梨の花

 

 こちらは「巻之下」の「秋之部」より

 

 甲斐がねや穂蓼の上を塩車

 

 山梨県御坂町出身の歴史家網野善彦氏によれば、甲斐は「孤立した山国」ではなく、「開かれた山国」。

 穂蓼の上を、他国から塩を運び入れる車が通っていきます。 

 

 

*『甲斐叢書第十巻 甲斐國志上』(甲斐叢書刊行會、1935年)

 

**『新日本古典文学大系28 平安私家集』(岩波書店、1994年)

 

***『國歌大観 續 歌集部』(紀元社書店、1925年)

 

****『國歌大観 歌集部』(大日本圖書、1907年)

 

*****『蕪村俳句集』(岩波文庫、1989年)