(前回より続く)  

 

 先週のこのブログは、戦災で失われてしまった名古屋城や大須観音、東別院を取り上げてみたのですが、今日は京都の深草。

 

 戦災ではないものの、戦後、京都で、その姿を大きく変えた地域と言ったら、深草かもしれないと思っています。 

 

 深草は、『千載和歌集』巻第四(秋歌上)*収録の藤原俊成の歌

 

 夕されば野辺の秋風身にしみてうづらなくなり深草のさと

 

で知られる、歌枕の地。

 

 本歌は『伊勢物語』**第123段の

 

 むかし、男ありけり。深草に住みける女を、ようよう、あきがたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。

 

  年を経て住みこし里を出でていなば

   いとゞ深草野とやなりなむ

 

女、返し、

 

  野とならば鶉となりて鳴きをらむ

   狩にだにやは君は来ざらむ

 

 当時は鶉がいるような草深い里だったのかもしれません。

 

 また、深草は、「世子六十以後申楽談儀」***が「観阿作」とする、

謡曲「通小町」****に、

 

  さては小野の小町四位の少将にてましますかや 懺悔に罪を滅ぼし給へ

 

と出てくる、四位少将(深草少将)ゆかりの地。

 

 欣浄寺が四位少将の邸跡とされています。

 

 

 上画像は、秋里籬島『都名所図会』(1780年)巻五*****より、挿画「深艸 欣浄寺 四位少将古跡」です。

 

 秋里籬島『拾遺 都名所図会』(1787年)巻四によれば、

 

 深草里 ひがしは谷口山を限り、西は竹田里、南は墨染、北は稲荷を限る。これ一箇の勝地にして、いにしへより高貴の山荘・寺院の大厦多し。殊に鶉の名所にて、古人の秀詠多し。

 

ということなので、鶉の名所だったのであり、

 

此里の名産は土器風爐、其外土工の類。瓦師はひがしの山下にありて、一村これを産業とす。又蕃椒(たうがらし)の粉に團(うちは)は、いにしへより此里の名物にして、世に名高し。

 

と書かれているので、唐辛子と團(うちは)が名物だったようです。

 

 

 上画像は、同図会の挿画「深草の里 團屋店(うちはやみせ)」*****です。

 

 深草乃 少将團安けれハ 京の小町に 買はやらかす 去来

 

 しかし、近代に入り、陸軍第十六師団が、広大な土地を収用して以降、深草は軍都になりました。

 

 『官報』第7609号(明治41年11月5日)によれば、師団司令部が京都府紀伊郡深草村に移転したのは、1908年10月30日のことです。

 

 

 上図は、「最新京都電車案内圖」(部分)。

 

 京阪電車の「深草」と「墨染」の間に「師團前」、市電にも「練兵場前」という停留所があります。

 

 なお、紀伊郡伏見町字下油掛より京都市下京区東洞院塩小路下ルの官線鉄道踏切に至る区間は、京都電氣鉄道が1895(明治28)年に開業させた、日本最初の路面電車******。

 1970年、惜しくも廃線になりました。

 

 

 上図は、『2万5千分1集成図「京都」』(1988年)

 

 市電が走っていたのは、西(左)の竹田街道。

 

 東(右)を走る京阪本線の「師団前」は「藤森(ふじのもり)」駅と名前を変えましたが、師団司令部庁舎は、学校法人「聖母女学院」本部の建物として現存しています。

 

 また、京阪本線「深草」駅西の、龍谷大学深草キャンパスも、旧第16師団の跡地。

 

 上図には表記されていませんが、キャンパスの東を走る通称「師団街道」、南の「第一軍道」という道路名*******に、当時を偲ぶことができます。  

 


*『新日本古典文学大系10 千載和歌集』(岩波書店、1996年) 

 

**『新潮日本古典集成 伊勢物語』(新潮社、1976年)

 

***『新潮日本古典集成 世阿弥芸術論集』(新潮社、1976年)

 

****『新潮日本古典集成 謡曲集 上』(新潮社、1983年)

 

*****国立国会図書館近代デジタルライブラリー

 

******高松吉太郎『写真でつづる日本路面電車変遷史』(鉄道図書刊行会、1970年) 

 

*******龍谷大学のウェブページ「深草キャンパス