(前回より続く)

 

 昨年、古書展で絵葉書を二つ買いました。

 

 

 一つは昨日登場した「水澤村名所」、もう一つが「三重縣員辨郡 石槫村女子青年團」の「石槫名所繪はがき」です。

 

 

 発行年は不明ですが、封筒になぜか「三重県穀物検査所 昭和13.7.26」のスタンプが捺されているので、1938年7月以前。

 また、葉書の表に「郵便はがき」と印刷されていることから、1933(昭和8)年以後の発行*ということになります。

 

宇賀渓ハイキングコース案内圖 

 

 

 私がこの絵葉書に興味を感じた理由は、封筒裏に描かれていた「宇賀渓 ハイキングコース案内圖」(上画像)。

 

 大安町教育委員会『大安町史 第二巻』(1993年)に、

 

 

 昭和になり、宇賀渓にハイキング道路や竜ヶ岳に登山道が開かれた。

 


という記述がありますから、まだ開通して間もないハイキングコースを、地元青年団が紹介しようとした絵葉書だったのかもしれません。

 

 ということで、今日は、この案内圖を見ながら、宇賀渓への道を辿ってみたいと思います。

 

 

 当時の最寄り駅は、三岐鉄道の伊勢治田。同駅は、1931年7月の開業です**。

 

 

 次に、その伊勢治田駅から、石槫南に向かう道路(地元では巡見街道というようです)を見てみると、「自動車ノ便アリ」と注記があります。

 

 

 かつて三岐鉄道は、阿下喜から治田を経て石槫南までの乗合自動車を営業していました。

 

 粁程は6.2、開業は1926(大正15)年6月です***。

 

石榑照光寺

 

 さて、その乗合自動車を、終点の石槫南で下車し、宇賀渓に向かって歩きはじめると、照光寺があります。

 

 左画像は、同絵葉書より「蓮如上人舊蹟 南山 照光寺」。

   
 大安町教育委員会『大安町史 第一巻』(1986年)によれば、かつては浄土真宗本願寺派の中本山であり、末寺二十二ヶ寺を擁する大寺だったそうです。

 
二万図「竜嶽」より石槫南


 上図は、1891年測図の二万図「龍嶽」。

 

 画像左上に、「南石加村」と書かれていますが、1907年、北石加村と合併し、上図に見られる石槫村になりました。

 

 

 当時の役場は画像右中央の「○」、その右を南北に伸びるのが巡見街道です。

 

 

 そして、照光寺は、役場南西の地図記号「卍」。

 

 南を流れているのが「宇賀」川で、対岸には「宇賀」という集落もあります。

 

 

 話が横道にそれますが、この「宇賀」は、「宇賀神」に関係する地名かもしれません。

 

 

 「伊勢輯雑記」****の「宇賀」の項に

 

 

 村号ノ事當村ノ内ニ宇賀神勸請ノ社アリ依テ村号トス。

 

 

とあります。

 

 

 宇賀神は、山本ひろ子『異神-中世日本の秘教的世界(下)』(ちくま学芸文庫、2003年)の「第三章 宇賀神-異貌の弁才天女」によれば、「神話の神でも、仏菩薩でもない、新しい第三の尊格」、つまり異神の一つであり、「即身貧転福」という現世利益の神のようです。

 

 

 さて、石槫南の集落に戻って、今度は西へ。緩斜面に茶畑が広がっています。

 

 

 昨日登場した水沢は内部川扇状地でしたが、石槫南も鈴鹿山脈東麓で宇賀川扇状地、やはり茶の産地です。

 

 

 大安町教育委員会『大安町史 第二巻』(1993年)を見ると、昭和の初め頃までは、茶を摘む「摘み子」、茶揉み専門の「茶師」と呼ばれる人達がいて、4~5人で組をつくって、桑名郡の多度村から員弁郡の石槫、石槫が終わると滋賀県の政所へと、茶期に合わせて、移動していたそうです。

 

 

 政所は、本居宣長『玉勝間』にも登場する、茶の名産地。現在の東近江市北東部、当時は愛知郡東小椋村です。

 

 

 2011年、国道421号の「石槫峠道路」が開通し、随分と便がよくなりましたが、当時のことですから、摘み子や茶師達は歩いて、石槫峠を越えていたかもしれません。

 

 

 上の「宇賀渓 ハイキングコース案内圖」でいうと左上、三重滋賀の県境に「石槫峠」との文字が見えます。

 

 

  
 

 

*絵葉書資料館のウェブページ「絵葉書の年代推定方法

 

**『官報 第1375号』1931年7月30日

 

 

***鉄道省編『全国乗合自動車総覧』(1934年)を見ると、

 

  

****大安町教育委員会『大安町史 第一巻』(1986年)史料編