表面に「芭蕉翁」、裏面には「宮人よ 我名を散らせ 落葉川」と芭蕉の句が刻まれています。
中村俊定校注『芭蕉俳句集』(岩波文庫)によれば、貞享元年(1684年)の句です。
各務支考『笈日記』(1695年)*に、
いかなる時にか侍りけむ、たどの権現を経るとて
宮人よ 我名をちらせ 落葉川
また、伊藤風国の『泊船集』(1698年)**巻之五の「冬之部」に、
たゞの権現にて
宮人よ 我名をちらせ 落葉川
とありますから、多度の権現、現在の多度大社を訪れた際に詠まれた句ということがわかります。
谷木因「桜下文集」***には、句形が異なるものの、成立事情がより詳しく、
伊勢の国多度山権現のいます清き拝殿の落書、
武州深川の隠、泊船堂主芭蕉翁、濃州大垣観水軒のあるじ谷木因、勢尾廻国の句商人、四季折々の句召れ候へ、
伊勢人の発句すくはん落葉川 木因
右の落書をいとふのこゝろ
宮守よわが名をちらせ木葉川 芭蕉
記されています。
多度山権現を訪れた際、木因の発句に芭蕉が応えたものということになるでしょうか。
句碑に話を戻しますが、岡本勝「落葉川と富田無三」(愛知教育大学『国語国文学報 44』、1987年)****によれば、裏面の左下隅の文字は、「勢州楠無三 同柚井東皐 同我蓬」と読むようです。
勢州楠無三とは、伊勢国楠郷の富田無三。明和六(1769)年の建立であり、これを記念し、富田無三編の『落葉川』が刊行されているそうです。
多くの場合建碑には、『落葉川』のような記念集が刊行されている。ところが、記念集の編者は無名の俳人が多いようである。それというのも、建碑には多額の資金が必要で、財政的な力を持った俳人が表に出てくるからであろう。
この富田家は、旧桑名藩領楠郷の有力者だったようで、四日市市楠総合支所『新編楠町史』(2005年)を見ると、Ⅲ近世(二)に「大庄屋富田加兵衛尉宗吉」、同(三)に「三重郡筋を管理した富田家」と出てきます。
宗吉は、無三宗矩の二代前にあたる人物。宗吉の甥の嫡子が、宗矩のようです。
同じく、四近代(二)に、「初代村長 富田光太郎時代」という項目があるのですが、光太郎宗辰は、宗矩の三代後の人物です。
なお、岡本前掲論文によれば、『落葉川』には、次のような前書があるそうです。
北勢なる多度のふもと、弥勒堂の境内にこの落葉塚を建立し、
現在の社の名称は、支考や風国のいう「多度の権現」・木因のいう「多度山権現」ではなく、「多度大社」。
弥勒堂も現存しません。
多度についても、廃仏毀釈(神仏分離)の影響を受けたものと考えられます。
*小澤武ニ校訂『笈日記』(春陽堂、1926年)
**風国編『芭蕉 泊船集』(すみや書店、1909年)
***森川昭編『谷木因全集』(和泉書院、1982年)
****岡本勝『近世俳壇史新攷』(桜楓社、1988年)