多度信仰の始まりは、『国史大事典』(吉川弘文館)の項目「多度山」に、

 

多度山を神体山とする信仰に始まり

 

とあるように、山岳信仰だったのだろうと思います。

 柳田国男も、『一つ目小僧その他』(1934年)*所収の「多度の竜神」の中で、

 

 最初はおそらくは海上を行く者が、はるかにこの山の峯に雲のかかるを眺めて、疾風雷雨を予知したのに始まり、後次第に平和の目的に利用するようになったのであろう。


と書いています。

 ただ、近世には、荒ぶる「疾風雷雨」の神だったようで、柳田国男によれば、

 

 とにかく畏き荒神であって、大なる火の玉となって出でて遊行し、時としては暴風を起して海陸に災いした。すなわち雨師というよりも元は風伯として、船人たちに崇敬せられていたらしいのである。

 

 ここで、「雨師」とは、雨をつかさどる神、「風伯」は風の神です。

 船人にとっては、雨よりも風の方が怖いので、彼らは「風伯」として崇敬したのかもしれません。

 

 ただ、米作農家にとっては、雨の方が重要。近世の多度社は、「雨師」つまり「雨の神」として知られていました。

 

 『国史大事典』に、

 

 当社は、祈雨に霊験があるとして、国内はもちろん遠方からも信仰がある。

 

とあり、柳田国男も、

 

 主として日本の手近の実例を挙げてみるならば、伊勢桑名郡多度山の権現様、近世江戸人の多くの著述に一目連と記すところの神は、雨を賜う霊徳今なお最も顕著であって、まさしく御目一箇なるがゆえに、この名ありと信ぜられている。

 

と書いています。

 

 どれほど遠方からの信仰があったのかわかりませんが、奈良県磯城郡三宅町発行の電子ブックに『雨たんもれ多度山 』(2012年3月)という民話があるので、西は大和国。

 静岡県清水区船越の神明宮に、多度神社の「雨乞い神 黒幣さん 」が祀られているということなので、東は駿河国ということになるでしょうか。

 

 その中で愛知県の知多半島は、現在も多くの溜池が見られることからわかるように、愛知用水が開通するまでは、干害に弱かったところ。

 松下孜「知多半島の雨乞い」**に

 

 雨乞い祈願は、村内の寺社でかなわないと、村より遠く離れていても雨乞いに効験のあると信じられていた有名な神社にかけている。知多郡で、一番多いのは、伊勢国桑名郡にある多度大社である。

 

とあるように、多度大社に対する信仰が篤かった地域です。

 同論文によれば、一つの村単独で雨乞いをかけることもあれば、8ヶ村、10ヶ村と合同のこともあり、さらに、多度神社の社家である小串家や平野家も、しばしば廻村していたようです。

 

東海道名所図会より挿画「多度山」   左画像は、『東海道名所図会』***より、挿画「多度山」(部分)。

 

 参道をはさんで、右手の屋敷が「社司小串氏」、左手が「社司平野氏」です。

 

 
 

 

*『柳田國男全集 6』(ちくま文庫、1989年)

 

**日本福祉大学 知多半島総合研究所『知多半島の歴史と現在 第17号』(2013年)

 

***国立国会図書館近代デジタルライブラリー