島崎藤村は1872(明治5)年、四男三女の末子として馬籠に生まれ、1881年、兄に連れられ東京に出ました。
三好行雄「藤村・人と文学」*によると、
奇行のめだちはじめた父親の傍を離れさせるため、という配慮もあったらしいが、実はそれ以上に、遊学のための上京には、島崎家の衰運を回復する期待と願いがこめられていたにちがいない。
父親とは、前回、このブログで取り上げた島崎正樹です。
九歳で東京に出ていますから、ふるさとで過ごした期間は短かったのかもしれません。
しかし、『ふるさと』(1920年)の「はしがき」**で、
人はいくつになっても子供の時分に食べた物の味を忘れないやうに、自分の生れた土地のことを忘れないものです。
と書いているように、彼にとって、生地である馬籠の持つ意味は、大きかったのだろうと思います。
『夜明け前』は、1929年から1935年にかけて、『中央公論』に分載された、藤村の代表作。そして、完成した最後の長編小説となりました。
主人公は、父をモデルとする青山半蔵、舞台はふるさと馬籠です。
馬籠は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境にも近い。
『夜明け前』序の章***の一節ですが、ここに書かれているように、馬籠は木曾十一宿の最南端。美濃との国境も近いところです。
美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂を登ってくるものは、高い峠の上の位置にこの宿を見つける。
新茶屋の下を通る境界線は、旧国界であり、県境。
南西の十曲峠から、北東に山道を登ると、馬籠の宿があります。
木曾路の他の宿場が谷あいにあるのに対し、馬籠は尾根上。
明るく開けた感じのするところです。
山の中とは言いながら、広い空は恵那山のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通って来るようなところだ。
青山半蔵は中津川の国学者宮川寛斎に学び、父吉左衛門は、美濃派の俳諧に親しんでいます。
確かに、馬籠は、西の美濃の空気が通って来るところのようです。
「それでもまあよい眺めですこと」
「そりゃ馬籠はこんな峠の上ですから、隣の国まで見えます。どうかするとお天気のよい日には、遠い伊吹山まで見えることもありますよ」
林も深く谷も深い方に住み慣れたお民は、この馬籠に来て、西の方に明るく開けた空を見た。何もかもお民にはめずらしかった。
お民は、半蔵の妻。妻籠の本陣から嫁いできました。
隣の宿場といっても、妻籠と馬籠は、何かと違うことが多かったようです。
今日においても、妻籠が、長野県木曽郡南木曽町であるのに対し、馬籠を含む木曽郡山口村は、2005年に越県合併し、岐阜県中津川市。
また、妻籠が、古い街並みを残し、今日、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されているのに対し、馬籠は、1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の大火で、古い町並みの建物のすべてが、焼失しています****。
馬籠宿の本陣・庄屋・問屋であった、藤村の生家も、祖父母の隠居所を除き、1895年の大火で焼失*****。当時の面影を偲ぶのは難しい状況にあります。
しかし、藤村は、ふるさとに対する思い入れの強かった人。
瀬沼茂樹「血と心と言葉」*によれば、彼は、地元の野良着である「カルサン」を、平常、好んで穿いていました。
また、彼は四男ですが、人手に渡っていた、本陣跡の生家の土地を買戻しています******。
彼の生家の跡地は、今日、島崎藤村記念館。
入口のプレートには、藤村の言葉、
血につながるふるさと
心につながるふるさと
言葉につながるふるさと
が掲げられています。
(次回に続く)
*『島崎藤村全集 別巻』(筑摩書房、1983年)
**『島崎藤村全集 19』(筑摩書房、1957年)
***島崎藤村『夜明け前 第一部上』(岩波文庫、1969年)
****馬籠観光協会のオフィシャルサイト「馬籠の歴史と文化 」
*****犬養孝「馬籠」、伊東一夫編『島崎藤村事典』(明治書院、1972年)
******瀬沼茂樹「血につながるふるさと」、『太陽』1972年3月号(特集島崎藤村と木曽路)