前回に続いて、W.ウェストン『日本アルプス登攀日記』(三井嘉雄訳、東洋文庫)より、彼の1894年夏の旅路を辿ってみたいと思います。

 

 同年8月16日、彼らは、木曽福島から権兵衛峠へ向かいました。

 

 福島を出発、午前七時十分。昨夜は盆踊りのため騒がしく、人が眠るまで続いたが、まずまずによく眠れた。

 

 木曽福島の盆踊りと言えば、「木曽節」「木曽踊り」が有名ですが、当時はどうだったのでしょうか。残念ながらウェストンの興味を引くことはなかったようです。

 

 八時二十分くらいに宮ノ越に到着した。


 宮ノ越は、旧中山道の宿場町。この地図の当時は、日義村です。

 

 児玉幸多『中山道を行く』(中公文庫、1988年)によれば、1874(明治七)年に、原野村と宮越村が合併した折に、朝日将軍義仲の、日と義をとって、日義村にしたとか。

 

 その義仲が、母小枝御前の菩提を弔うために建立したとされるのが、JR宮ノ越駅の対岸にある徳音寺。

 児玉幸多前掲書によれば、正徳四年に移転する以前は、徳音寺の集落にあったそうです。

 

姥神峠


 上図は、昭和六年修正測図の五万分一地形図「伊那」。左下が、その徳音寺の集落です。

 

 さて、話をウェストンに戻します。

 

 神谷峠の麓で馬車を降りた。八時四十五分。

 

 彼の言う「神谷峠」は、この地図でいう「姥神峠」のことだろうと思います。

 塩尻市のウェブサイト「まなびの道学習ガイド」の「権兵衛街道 」によれば、「神谷峠」というのは、峠の東麓にある集落、羽淵での呼称。神谷では「羽淵峠」と呼ぶそうです。

 

 道は山吹橋で木曽川を渡り、狭い谷にはさまれた急流の川原に沿って登って行く。

 

 「山吹橋」は、この地図でいう「神谷橋」ということになるでしょうか。ここで、木曽川を渡り、神谷川沿いに、神谷の集落を通って、峠道を登ります。

 

 このルート、実は、伊那谷と木曽谷を結ぶ、旧「権兵衛街道」の一部。

 児玉幸多前掲書によれば、1695(元禄八)年、神谷集落の「権兵衛」が、木曽十一宿の問屋に働きかけ、十一宿の連名で、幕府に許可を願い出て、開削された新道です。

 なお、権兵衛は、市川健夫「信濃の峠」*によれば、「古畑権兵衛」。神谷のムラの牛行司(牛方の親方)だったそうです。

 

 午前十時に神谷峠の頂上に着いた。御嶽のすばらしい眺め。頂上には一群の像の前に鳥居があり、美しくて柔らかな芝が少し、石は御嶽に捧げられている。

 

 塩尻市のウェブサイト「まなみの道学習ガイド」の「権兵衛街道 」を見ると、神谷からの峠道は分断されて現在通行不可。

 しかし、峠には、鳥居を建てた御嶽遥拝所があり、霊神碑を中心とした、40基余りの石碑が残っているそうです。

 峠の東麓にある羽淵は、住民すべてが講中ということなので、御嶽講が盛んな集落だったのでしょうね。
 

*『歴史手帖』第120号(名著出版、1983年)

 

(次回に続く)