相馬黒光は「穂高高原」(1944年)*の中で、
私がようやく語り得る穂高村の地相は、参謀本部五万分の信濃池田及び松本の二図をひらくことによって自ずと瞭らかであるが
と書いていますが、今回はそのうちの五万分一地形図「松本」、1933年の発行です。
同図幅は、このあと1946年まで発行されていませんので、彼女が執筆時に見たのは、この1933年の版である可能性があるかなと思っています。
さて、彼女が東穂高村の相馬愛蔵のもとに嫁いだのは、1897年。当時はまだ、中央線も篠ノ井線も開通しておらず、信越線の上田から馬で、保福寺峠を越えています。
保福寺峠を越え、一夜を浅間温泉に明かして次の朝私は松本の町に入った。六万石のこの城下を過ぎ、糸魚川街道に出て、穂高村に入るのであった。
松本からは糸魚川街道を人力車で走ります。
町を出外れてまっすぐな糸魚川街道を二台の人力車が走る。先のには愛蔵が乗り、私の俥は後からそれについて行った。
糸魚川街道は、松本と糸魚川を結ぶ当時の県道です。
糸魚川街道を揺られて行って、この辺から穂高村と教えられ、ことに今の穂高町の入口三枚橋のところで右に入り、信飛国境に背を向けてしまうと、どこも田舎に共通の景色でちょっとその特性がつかみにくいが,俥は細い径を流れに沿うて走り、ひとつの流れに別れるとまたひとつの水が来て迎える。
地図でいうと、中央を南北に走るのが糸魚川街道。そして、中央上の辺りに「三枚橋」という注記が見えますが、そこを右(東)に入ると、白金の集落です。
相馬愛蔵はその白金の庄屋の生まれ、黒光はそこへ花嫁として来たということになります。
私を待ち迎えてくれる相馬の本家は、その落差の一段と急な、すなわち穂高村の東端にあった。この辺りを白金といい、部落の入口に杉のむら立ち眼に高くあらわれて、石の華表しめなわ結い、相馬家の鎮守の社がある。
さて、七日にわたる披露宴が続いた後のある夜、夫愛蔵の友人が、挨拶に訪れます。
穂高小学校の主席訓導井口喜源治、助教師望月直弥、同村の青年丸山文一、そして少年は隣接耕地の荻原守衛と、名はおぼえたのであったけれど、愛蔵に誘われて基督教徒となり禁酒会の同志になった人々という
東穂高禁酒会は相馬愛蔵が起こした会、井口喜源治は、相馬愛蔵の中学校での同級生です*。
また「隣接耕地」とは、相馬愛蔵・黒光夫妻が住む白金耕地の南に隣接する「矢原耕地」で、荻原守衛は、井口喜源治の教え子だったそうです*。
相馬黒光は、それからしばらくして、地図下中央、柏矢町への通院の帰途、守衛少年が写生している姿をみかけることになります。
矢原の田圃みちに山を見て立っているひとりの少年があった。木綿縞の袢纏に雪袴を穿いて、それでひとしおにずんぐりと小肥りに見え、まるい顔が邪気なく初々しかった。絵が好きなので暇さえあればこうして写生するのだといい、それが直接にものをいうはじめであった。
この邪気なく初々しかった守衛少年は、のちの彫刻家荻原碌山。
彼は、1910年4月20日、相馬愛蔵・黒光夫妻が経営する中村屋で吐血し、同22日に亡くなりました。満30歳と5か月だったそうです***。
*相馬黒光「穂高高原」、『相馬愛蔵・黒光著作集 1』(郷土出版社、1996年)
**相馬愛蔵・黒光「一商人として-所信と体験-」、『相馬愛蔵・黒光著作集 2』(郷土出版社、1996年)
***碌山美術館のウェブページ「荻原守衛(碌山)略年譜」 より