社としての「津嶋」の初出は、現在のところ、国の重要文化財「七寺一切経 」の奥書*。
安元元(1175)年から治承四(1180)年にかけて、5年の歳月をかけて書写されたとされたものだそうです。
奉預 勧請守護権現
伊勢内外梵尊土所牟山
白山妙理熊野三所山王三聖
鎮守三所多度津嶋南宮千代
大行事
熱田大明神 八劒大明神
とあり、多度や南宮と並んで、津嶋が鎮守三所として挙げられています。
また、『吾妻鏡』の文治四(1188)年2月2日の記事**にも、
尾張国津嶋社板垣冠者不弁所当之由事
とあることから、少なくとも1180年代には、津嶋社が存在していたものと考えられます。
ところで、この「津嶋社」は、鎌倉時代後期のものとされる「鉄燈籠 」*の刻銘に、
天王御宝前奉燈籠一宇
とあり、また、天王社の神宮寺のものであったとされる、応永十(1403)年鋳造の「梵鐘 」*の刻銘にも、
尾張国海西郡津島牛頭天王鐘 (略) 応永十季癸未十月二十七日 願主沙弥道叟
とあるため、遅くとも15世紀の初めには、「牛頭天王」と呼ばれていたものと考えられます。
江戸時代の名所図会にも、
津島牛頭天王(『東海道名所図会』)
津島祇園牛頭天王(『伊勢参宮名所図会』)
津島牛頭天王社(『尾張名所図会』)
と登場します。
牛頭天王は、インド祇園精舎の守護神であり、また防疫神の性格をもち、京都の祇園社の祭神でもありました***。
このような状況を変えたのは、維新政府の神仏分離令。
1868年3月28日付、神祇事務局の布告****には、
一 中古以来、某権現或ハ牛頭天王の類、其外仏語ヲ以て神号ニ相称へ候神社少なからず候、何レモ其神社の由緒委細ニ書付、早早申し出すべく候事(中略)
一 仏像ヲ以て神体ト致し候神社ハ、以来相改申すべく候事
付 本地抔ト唱へ、仏像ヲ社前ニ掛、或ハ鰐口、梵鐘、仏具等の類差置き候分ハ、早々取除キ申すべき事(後略)
とあり、「牛頭天王」が名指しされ、また、鰐口や梵鐘等の類を、早々取り除くことが命じられています。
現在、市指定文化財である「鰐口 」は、元は牛頭天王社の拝殿に懸けられていたのが、神仏分離の折に、神宮寺の一つであった「宝壽院 」の所蔵になったもの。
やはり市指定文化財で、先述の「梵鐘 」も、元は本殿北東の鐘楼に懸っていたのが、1868年5月に鐘楼が取り壊され、兼平町に払い下げになったものとか。
「津島神社」のウェブページ「津島神社について 」によれば、「津島神社と改称され」たのは「明治の神仏分離後」、現在の祭神は、「建速須佐之男命」、相殿で「大穴牟遅命大国主之命」です。
*『津島市史 資料編(二)』
**『津島市史 資料編(三)』
***岡田精司「八坂神社」、『事典 神社の歴史と祭り』(吉川弘文館、2013年)
****山折哲雄・大角修『日本仏教史入門-基礎資料で読む-』(角川選書、2009年)