先日、特別企画展「桑名、文學ト云フ事。-芭蕉・鏡花・中也 - 」を見に、桑名市博物館へ行ってきました。

 

 JR名古屋~桑名間の運賃は350円。下り1番ホームで下車すると、中原中也の詩碑があります(下画像)。

 

 

詩碑「桑名の駅」

 

「桑名の駅」*             
 

 

桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた
夜更の駅には駅長が
綺麗な砂利を敷き詰めた
プラットホームにただ独り
ランプを持つて立つてゐた

桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ泣いてゐた
焼蛤貝やきはまぐりの桑名とは
此処のことかと思つたから
駅長さんにたづねたら
さうだと云つて笑つてた

桑名の夜は暗かつた
蛙がコロコロ鳴いてゐた
大雨おほあめの、あがつたばかりのそのよる
風もなければ暗かつた
(一九三五・八・一二)
「此の夜、上京の途なりしが、京都大阪間の不通のため、臨時関西線を運転す」

 

 

 岩波文庫版『中原中也詩集』の編注によれば、初出は、雑誌『文学界』1937年12月号。

 

 

 佐藤喜一『鉄道の文学紀行』(中公新書)、きむらけん『日本鉄道詩紀行』(集英社新書)にも取り上げられているところをみると、中原中也ファンはもちろん、鉄道文学ファンにも知られている名詩なのだろうと思います。

 


 詩碑に刻まれているのは、一連6行ですが、下部にはめこまれた銀色の銘板には三連16行全てが記されていました。

 「桑名の夜は暗かった 蛙がコロコロ鳴(泣)いていた」のリフレインが印象的です。

 

 現在の桑名駅周辺からは想像できませんが、1935年(昭和10年)当時は、夜も暗く、蛙がコロコロと鳴いているような静かなところだったのでしょうね。

 

五万図「桑名」

 

 上図は、1932年修正測図の五万分一地形図「桑名」。

 

 駅周辺に、まだかなり、水田や乾田が残っていた、ということがわかります。

 

桑名市博物館

 

 さて、その桑名駅から、東へ20分ほど歩くと、桑名市博物館に到着します(上画像)。

 

 
 旧百五銀行桑名支店の建物を買収し、1971年に桑名市立文化美術館として開館したもの**だそうで、あまり博物館という雰囲気の建築ではありません。

 

 1983年から84年にかけて増改築しているようですが、全体として老朽化している感じも否めません。

 

 しかし、ハコ(器)はともかく、中身、つまり今回の企画展は、とても充実したものでした。

 

 

 まずは、中原中也ですが、出品目録を見ると、中原中也記念館から計16点。

 

 

 少年時代のものとして、成績表に、図画、習字。ご存知の方も多いかと思いますが、彼は、なかなかの達筆です。

 

 

 自筆の表札に、机にコート。帽子は復元品とのことでしたが、その帽子をかぶった、18歳の折の、よく知られた肖像写真も展示されていました。

 

 

 それから、詩「桑名の駅」が初出の、雑誌『文学界』1937年12月号に、詩集『山羊の歌』(1934年)、『在りし日の歌』(1938年)、『ランボー詩集』(1937年)。

 

  

 しかし、一番、目がいったというのか、気になったのは、彼の「日記帳」。 開いてあったページには、

 

 関西水害にて大阪より関西線を経由。桑名駅にて長時間停車。

 

 

 ただし、 「関」と「間」の字は、彼が略字で書いているため、正確に変換できていません***。

 

 

 それはともかく、この数時間の停車が、「桑名の駅」という詩を生んだということになります。

 

 

 当時の乗客の方には無意味な停車だったのでしょうが、中也は2年後の1937年、30歳の若さで死んでいますから、後世の我々にとっては、とても意味ある停車だったということになるかもしれません。

 

 

 

 

*大岡昇平編『中原中也詩集』岩波文庫より引用。なお、『中原中也全集 第2巻』(角川書店)では、旧字体で「桑名の驛」

 

**文化庁のウェブサイト「文化遺産オンライン」より「桑名市博物館

 

 

***『中原中也全集 第4巻』(角川書店)では、旧字体で「関」の字は「關」。「駅」の字は、「驛」。