『寺田寅彦随筆集 第五巻』(岩波文庫)に

 

 「当世物は尽くし」で「安いもの」を列挙するとしたら、その筆頭にあげられるべきものの一つは陸地測量部の地図、中でも五万分一地形図などであろう。

 

という書き出しで始まる、「地図をながめて」という小品があります。

 

 弟子中谷宇吉郎の「寺田寅彦の追想」*によれば、

 

 先生はいつか、「物理学者としては随筆など書くような不幸な目にはなるたけならば会わない方が良いのだ」という意味のことを言っておられた。

 

とのことですが、後世の我々にとって、こうして彼の随筆を読むことができるのは、幸福なことです。

 

 中でも、この「地図をながめて」は、『日本の名随筆 別巻46』(作品社)、また『現代日本文学大系29』(筑摩書房)にも収められているので、彼の作品の中でも名随筆ということになるのだろうと思います。

 

 地形図の価値はその正確さによる。

 

と彼は、陸地測量部の地形図を高く評価します。

 

 痛切に感じたことは日本の陸地測量部で地形図製作に従事している人たちのまじめで忠実で物をごまかさない頼もしい精神のありがたさであった。

 

 そして、三角点の選点に始まる 測量作業の「艱難辛苦」について、やや専門的に記述していきます。

 

 測量を始める前にはまず第一に三角点の位置を選定する選点作業が必要である。(略)そうして、三角点の配布が決定したら、次にそこに櫓を組む造標作業がある。(略)櫓ができたら少なくとも一年は放置して構造の狂いを充分に落ち着かせてからいよいよ観測にかかる。

 

 このあたりには、科学者としての、彼の視点を感じるところです。

 

 さらに、陸地測量部というと、剣岳の柴崎芳太郎や穂高・白馬の選点をした館潔彦といった技師クラスに、ついつい注目してしまうところですが、寺田寅彦は、

 

 技師一人技手一人と測量人夫六名ないし十名ぐらいの一行でテント生活をする。

 

とした上で、

 

 技術官に随行する測夫というのがまた隠れた文化の貢献者である。(略)この測夫の熟練のいかんによって観測作業の進捗が支配されるのである。 

 

というように、現場の作業員である測量夫の重要性について述べていきます。このあたりが、彼の人柄であり、そして、この「地図をながめて」が、名随筆たる所以なのだろうと感じます。

 

 それだけの手数のかかったものがわずかにコーヒー一杯の代価で買えるのである。

 

 現代の我々が、陸地測量部の地図を、コーヒー一杯の代価で買えるかというと、それは無理な話。

 

 しかし、戦前の日本について多くの知識を得られるという点で、1枚1000円や2000円ぐらいの価値はあるのではないかと思い、時々、古書店で買って、眺めています。

 

*『中谷宇吉郎随筆選集 第二巻』(朝日新聞社、1966年)