「私説桶狭間」196回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

文禄2年(1593)8月3日、豊臣秀頼誕生の報せはその日のうちに京まで達しました。西洞院時慶という公家が日記に残しているそうです。(『淀殿』福田千鶴)

実は同日の日付で豊臣秀吉が北政所に手紙を送っており、9月10日頃に名護屋を発ち、25~26日頃に大坂に到着する予定と伝えています。(『豊臣秀頼』福田千鶴)

実際には本文にあるように8月15日に名護屋を発ち、25日に大坂城にたどり着いています。これでも大急ぎだったのでしょう。

 

本文にもありますが秀吉は生まれてきた拾に対して敬称である「お」を付けるなと命じています。そしてこれも本文に書きましたが、秀吉自身がすぐにこれを破り、この命令はすぐにウヤムヤになります。

また、淀殿(茶々)は、自ら拾に授乳していました。これって当時非常に珍しいことだったようです。秀吉くらいの身分はもちろん、大名級の家は実母が子にお乳をやることはなかったからです。

多分淀殿が自らお願いし、秀吉が認めたということだろうと想像します。二人にとって鶴松のショックが未だ癒えておらず、トラウマになっていたのでしょう。

前回の話にかぶりますが、上の2つのエピソードは、秀吉は拾が自分の子であることを信じて疑わず、淀殿も今度こそはしっかりと自分の手で育てたいという想いが伝わってくるものだと思います。

ちなみに当然秀頼には乳母もおり、右京大夫(うきょうのたいふ)と宮内卿局(くないきょうのつぼね)が知られています。

 

それにしても、この時に豊臣秀頼が生まれたことは、はたして豊臣家にとって良かったことだったのか。あくまで結果論、もしくは歴史のifなのですが、秀頼が生まれなかったら関白秀次があのような悲劇にあうこともなく、北政所の甥である小早川秀秋は小早川家に養子に行くこともその後の関ケ原のキーになることもなかったでしょう。

そもそも関ケ原の戦いは起こらなかったように思います。

文禄2年(1593)の丁度このときに秀頼が生まれたために秀吉の死後徳川家康が天下分け目となる関ケ原の戦いを実現することができ、秀頼が成人になったために大坂冬・夏の陣が起こったといえそうなのです。

秀頼を「運命の子」と表現している本などがありますが、本当にそうだと思います。歴史に人格があるとすれば、かなり人の悪いところがあると感じるのです。