「私説桶狭間」181回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

今川義元の死の場面です。

義元たちの敗走の姿は『信長公記』では以下のように書かれています。

 

旗本は是れなり。是れへ懸かれと御下知あり、未の刻、東へ向つてかゝり給ふ。初めは三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合せ~~、次第~~に無人になつて、後には五十騎計りになりたるなり。

 

「旗本は是れなり」と言ったのは、御下知という言葉から信長だと推測できます。未の刻は午後2時ですが、夏至なので2時半から3時位ではないかと思われます。この時間に織田軍は義元を追って東に向かったということになります。

今の地名でいうと、有松幕山あたりだっと思える本陣から南へ向かい、桶狭間西から東に下って幕山の交差点辺りに降りたと考えていました。

あとはまっすぐ行けば「桶狭間古戦場公園」です。

 

義元勢は始め3百人程が義元を円形に囲んで退いていたが、何度か戦いを重ねているうちに人数が減り、後には50人ばかりになったということです。

(ちなみに「騎」という言葉は通常馬に乗った武者の意で、お付きの者が5人や10人いたりするらしいのですが、この場合は馬に乗って逃げたわけじゃなく、単に「人」と数えていいと思います)

後の文章で桶狭間という場所は狭く入り組んだ谷間で、深田に足を取られ、草木が高く低く生い茂った難所だったと書かれています。

幕山の本陣に上るとき、義元は塗輿に乗っていたと考えられるため、塗輿が通れる道もしくは整地していたと想像します。

そうなると退却時は途中で違うルートになってしまったのかもしれません。

 

義元が討ち取られた場所は「桶狭間古戦場公園」辺りとしました。

幕山の交差点をまっすぐ進めばその場所になります。DCMカーマや衣料品店のアップルズあたりはこの当時深田だったのかなと想像しています。

 

さて、今川義元は討ち取られましたが、本編はまだまだ続きます。(テレビ番組的な意味ではなく)

これからもよろしくお願いいたします。