「私説桶狭間」177回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

本文では豪雨の中、織田、今川の両陣営が一歩も動かず、お互いを睨み合っています。

何故このシーンがあるのかというと、やはり『信長公記』が元になっています。

 

山際まで御人数寄せられ侯ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(ツラ)に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下の松の本に・二かい三かゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余の事に、熱田大明神の神軍かと申し侯なり。

 

文章は山際、山のふもとまで軍勢を寄せたとき、にわかに激しい雨が石や氷を投げ打つように降った。逆に言うと雨は織田軍が山の麓に進軍するまで降らなかったということです。

また、この雨はすぐ後に止みます。文章の最後『申し候なり。』の次は『空晴るゝを御覧じ』と続き、そのあとに戦いが始まります。

桶狭間はドラマなどでよくある雨中の戦いではなかったということですね。

 

雨は敵の顔に降り、味方は後ろの方に降りかかる。

つまり両軍は向き合っていたということになります。戦い開始の文章で織田軍は『東に向かってかゝり給う』という表記がありますから、この時点では織田軍が西、今川軍が東側に布陣していたことが想定できます。

ちなみに今通説となっている今川軍の桶狭間山布陣では、織田軍はほぼ北から攻めてくるということになりますから、この辺りに矛盾があるように思えます。(但し、『信長公記』で信長が鷲津砦・丸根砦からの煙を熱田の社で見る場面は「東を御覧じ」とあります。実際は南南東、ほぼ南の方角です)

 

豪雨は沓掛の峠の松の本に、二抱えも三抱えもある樟の大木を倒します。

松の本が地名かどうかは分かりません。が、ともかく樟があったのは沓掛の峠あたりと記載されています。

ここで注目したいのは、大木が倒れるほどの大雨、嵐であったということです。

記事から雷の可能性は少なく、元々根腐れしていたとか、地盤が緩んでいたための崖崩れなどが推測されます。東に倒れたという事ですから風がかなり強かったのかもしれません。

そうなると両軍とも動くことが出来なかったということも考えられます。『信長公記』にはそのような表現はないので分かりませんが。

 

さて、次回はいよいよ戦いの始まりです。このときいったい何が起こり、今川は織田に敗れたのか。

謎の1つに対し、小説なりの回答を提示したいと思っています。