「私説桶狭間」176回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

BS朝日で昨年やっていた番組です。

『「空は歴史を見ていた」桶狭間・蒙古襲来・・・天気が日本の運命を変えた!?』

これを見ると、桶狭間辺りには地元の人々の言う“雨の道”というものがあり、局地的に短時間の雨が降ることがあるそうです。

 

『信長公記』には「俄かに急雨(むらさめ)、石氷を投げ打つ様に」と書かれています。

出演していた気象予報士の方は、石氷というのは雹の可能性があり、雹ならば積乱雲が通ったということだろうと解説されています。

現在のよく似た事例がいくつか出ていたのですが、雨雲は北西から南東に動くことが多いそうです。

「ほんの少し信長軍の方が雨が止むのが早かった。その差はほんのわずかですが」

気象予報士の方はそのようにも話されています。

積乱雲の寿命は長くて1時間、強い雨を降らすのはせいぜい20分だそうです。

 

番組の趣旨は、信長は天候を分かっていてこれを利用した、というものでした。

信長はその地域の気象変化を一番よく知っている地元の人に聞いてこれを予見した。そういうことが出来るための情報収集ネットワークを持っていたのではないか、という仮説を立てていました。

 

ある意味当然なのですが、この番組では通説通り今川義元らが織田軍の動きに気付かなかったことが今川軍の敗因だったとし、大きな理由として、集中豪雨が織田軍の接近を隠す役割を果たしたという説をとっています。

大雨がいつ降るかという予測情報を得ていた信長は、「山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨」となるようにタイミングを計って進軍したということです。

確かに雨の中は行動するのにいろいろな不便があるだろうし、特に進軍の音が雨音にかき消されていたということはあるかもしれません。

 

本文でも信長は雨のタイミングを計っています。

ただし理由は、麓に入った織田軍と山々で陣を張っている今川軍が、どちらも動かない睨み合いの時間を作るためと考えています。

後々のインパクトを高めるための“静”の時間、これを信長は求めていたと思うのです。