「私説桶狭間」173回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

中島砦にて信長が兵たちの前で作戦を伝えるシーンです。

本文では中島砦の兵たちを前にして指示をしていますが、元本となる『信長公記』は違っています。

 

止める家臣を振り切って善照寺砦から中島砦に移った信長は、中島砦でまた出撃しようとする。このとき(多分近習の誰かが)無理にすがりついて信長を止めようとしたが、このとき信長は言った。

 

と、信長は周囲にいる近習たちに作戦を告げることになっています。

実は前回の近習たちに作戦を告げるエピソードはこの部分を引用して書いたのですが、これから今川本陣へ出撃するにあたり、中島にいる兵全員に訓示する形にしました。

以下現代語訳ですが、どうも不思議な命令なのです。

 

「みなよく聞け。今川のあの武者は昨夜早くに兵糧を食べただけで夜通し行軍している。大高に兵糧を入れ、鷲津・丸根の攻略で手を焼き、辛労して、疲れ切っている兵たちだ。こちらは新手だ。『小軍にして大敵を怖れることなかれ。運は天にあり』この言葉を知らぬか。敵がかかってきたら引け。退けば追え。どうあっても一団となって敵を倒し、追い崩すことがこの計略だ。敵の首は取るな。打ち捨てにせよ。戦に勝てばこの場にいる者たちは家の面目が立ち、末代までの高名となるぞ。ただただ励め」

 

まず前半、信長は今川本陣に向かうことになるので、丸根鷲津を攻略した朝比奈や井伊、松平軍のことを言うのは間違っています。信長が状況をしっかりと把握していたとすれば、兵たちの恐怖心を和らげるため、という想定ができますが、聞いているのは近臣たちです。果たしてこのようなことを言う必要があったのかと思われます。

後半、信長は戦における行動指針を指示しますが、敵が向かってきたら引き、敵が退けば追うなど、後に言っているように敵の攪乱が目的のように聞こえます。

私たちは結果を知っているからということがありますが、この矛盾はどう考えるべきか。

また最後に言った戦に勝てば以下のセリフは、周りの近臣に、というよりも、兵たち全員に言う言葉のように思えます。

つまりはどこを見ても違和感が大きいのです。

 

で、本文の表現となりました。

『信長公記』の作者太田牛一は桶狭間の戦いの時どこにいたのかは分かりませんが、もしかしたら信長の言葉を直に聞いた一人であったかもしれません。もしいなかったとしても後に誰かから聞いたと思うのです。

だから、ある程度は実際の言葉だったのだろうと推察します。そうすると、余計に何故だろうと考えてしまいます。

これも後に推論を提示できたら、と思っています。