「私説桶狭間」172回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

中島砦に織田軍約2千が入る途中、砦の中にいる織田信長に梁田弥次右衛門の使者が現れ、何らかの報告をします。

この内容、完全なネタバレになってしまうので、今は語りません。でも薄々感づいている方もおられるのではないかな、と思っています。

しかし仕掛けはそれだけではありません。その後も続ける予定なのでもうしばらくお付き合いくださいね。

 

さて今回取り上げるのは簗田弥次右衛門の功績についてです。

一番有名だと思われるのは信長が中島砦に入ったとき、簗田弥次右衛門本人もしくは使者が中島に来て今川義元が桶狭間で休息していることを伝えた、というものです。

初見が分からないのですが、明治の参謀本部が刊行した『日本戦史 桶狭間の役』がこの話をメジャーにしたようです。

 

信長が中島砦に移ろうとしたとき、簗田政綱の謀者が沓掛方面から来て「義元は大高城に移動しようとして桶狭間に向かっています」と報告。さらに別の謀者がきて「義元は桶狭間に駐屯しました」と告げた。

それを聞いた政綱は「今川軍は瞬時に丸根・鷲津の両砦を落としたため、必ずや驕りをもって陣を備えているでしょう。今、兵を隠し、不意に本軍を攻撃すれば必ずや今川義元を討ち取ることが出来るでしょう」と信長に進言した、というものです。

これを信じると弥次右衛門は自分の部下が持ってきた情報によって信長に作戦を提案した、ということになります。

 

この元とされるのは『備前老人物語』という江戸時代初期の聞き書きで、「今川義元との戦いのとき、簗田出羽守が“よき一言”を申したことで信長は大勝し、その場で沓掛村3千貫の地を賜った」というものです。

文章は続けて「このことは『信長記』と少し違ったので、ここに記した」と書いています。

この『信長記』は小瀬甫庵のもので、こんな内容です。

 

前田利家らが首を取ってきたのを見た信長は「幸先がよい。敵の後ろの山に回り込め。そのため山際までは旗を巻いて忍び寄り、義元の本陣にかかれ」と命じると、簗田出羽守が進み出て「仰せごもっともです。敵は今朝丸根鷲津を攻めてからその陣容を変えていないはず。だからそのように攻めれば敵の後陣が先陣となります。きっと敵の大将を打つことが出来るでしょう。急ぎましょう」と申し上げた。信長は「見事な申し様だ」と大声で言い、皆が奮い立った。

これ、迂回説を説明したような会話になっています。

 

ただよく分からないのは、太田牛一の『信長公記』では、桶狭間に簗田弥次右衛門が全く登場していないことです。後の人たちは彼がなんらかの殊勲を上げたとしているのに、何故でしょう。

これ、牛一の、例えば「天文二十一年五月十九日」という表記と意図がつながっているように思えるのです。

彼は明らかに何かを隠しているように感じます。

このあたりも本文にしていきたいな、と考えています。