「私説桶狭間」169回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)

 

『信長公記』を読むと、佐々・千秋勢はさほど時間がかかることなく敗退したようです。

「槍下にて千秋四郎、佐々隼人正を初めとして、五十騎計り討死候」と書かれています。広辞苑で槍下を引くと「槍で突き伏せること」とあります。

また、17回「赤塚の戦いアレコレ」で書きましたが、槍下は劣勢という意味合いで使うようです。

 

『信長公記』では、この後「是れを見て、義元が矛先には、天魔鬼人も忍(たま)るべからず。心地はよしと、悦んで、緩々(ゆるゆる)として謡(うたい)をうたはせ、陣を居えられ候」と続きます。

これを読むと義元は完全に油断しているように思えます。

しかし、善照寺砦に信長勢がいるのを分かっていて、こんな能天気でいられるのか疑問です。もし義元が実際にこのような行動をとったとしたら、自軍の鼓舞と大将として余裕のある様を見せようとしているとしか考えられません。

どうしようかな、と思い、本文はあえて変えました。こちらの方が鼓舞という意図に適うと考えたためです。あと本文では、織田の出方がわからないウヤムヤとした気分を落ち着かせるためにやったということもいえそうです。

 

ところで、善照寺砦の周囲に群がっている野次馬の件ですが、これも『信長公記』に記されています。

但し、桑田忠親校注『新訂 信長公記』(新人物往来社)の底本である町田本や国立国会図書館のデジタルコレクションになっている我自刊我本などではなく、天理大学付属天理図書館所蔵の「天理本」や「個人蔵本」です。

まず「天理本」ですが、「熱田・山崎近辺より見物に参り候者共、御合戦ニ可被負、急帰れと申、皆罷帰候き、弥手薄ニ成候成」と書かれています。

「個人蔵本」では「熱田・山崎衆見物ニ参候者共、御合戦ニ可被負候間、急帰候ヘト申、皆罷帰候ヲ、弥手薄成申成」

どちらも意味合いは、熱田・山崎あたりから合戦の見物に来た者が(善照寺砦のまわりに)いたが、彼らは織田軍が負けるだろうと急に帰ってしまい、織田軍が手薄になった。という意味合いです。

佐々・千秋勢の敗北を見て見物人の誰もが「だめだこりゃ」と思ったという事でしょうが、野次馬が帰ったことで織田軍、つまりは善照寺砦が手薄になったというのはちょっと違和感があります。単に人が減ったということかもしれませんが、気になる表現ではあります。

 

※野次馬の件は「『信長記』と信長・秀吉の時代」(金子拓編・勉誠出版)の「再考・桶狭間合戦 天理本・個人蔵本を中心に」桐野作人から引用しています。