「私説桶狭間」103回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)


永禄3年は『武功夜話』から始まります。

尾張北部の小折村、現在の江南市にあった生駒屋敷から始まりますからこれだけで元ネタが分かる方がいるかもしれませんね。

ただ内容は変えています。加来耕三氏訳の「現代語訳武功夜話 信長」では、以下のお話しになっています。


永禄3年正月、年賀のために前野村を訪れた蜂須賀彦右衛門(小六)、前野将右衛門の2人は、村の人々に驚くべきことを伝えます。

2人は先日所用で三河へ赴き、駿河の今川義元が数万の軍勢を率いて尾張に進軍するという噂を所々で耳にしたとのこと。

あまりの大事なので年賀を兼ねて伝えに来たと言うのです。

2人はここに来る前に郡村(小折村)に立ち寄り、雲球(生駒家長)の耳にも入れておいたということです。


このエピソードを採用した理由は、この時期から今川義元の尾張侵攻の噂が一般にまで広がっていたという事のためです。

桶狭間関連のドラマなどでは戦の寸前まで織田家には今川侵攻の情報が伝わっていなかったように描かれていることが多いように思います。でも実際そうだったのでしょうか。

まず織田信長ですが、そんなに迂闊な人物でないことは彼の履歴が語っています。

今川義元にしても左程隠す気はなかったのではないかと思えます。これは想像でしかないのですが、義元自らが大軍団を率いて来るという噂は尾張と織田家中の動揺を誘うと思われるからです。

永禄3年のこの時期、尾張周辺はそういった噂が広がり、織田家中は正確な情報の収集をしていたのではないかと思うのです。

さて、では桶狭間の戦いのときも『武功夜話』のエピソードを使うのか、というと、小さなところでは採用するかもしれませんが、本筋は全く違う展開を考えています。

結構有名なエピソードで、桶狭間の戦いの謎が解けたという煽り文などもありました。

遠藤周作先生や津本陽先生が小説で採用したということでも有名です。

でも、この説を採用するには今川義元がマヌケであるという条件が必要です。

本文の義元は(筆者としては)『海道一の弓取り』という異名を持つ人物として描いているつもりですからこの説は当たらないことになります。

いずれにしても私の知る限りこれまで見たことのない展開にするつもりです。

もしあったらスミマセン、ということになりますが。