「私説桶狭間」94回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)


本文ではいよいよ義元たちの運命を180度変えた事件が起こりますが、今回はそのお話しの前に永禄2年段階駿府にいた北条氏規を俎上に上げたいと思います。

北条氏規、当時は幼名の助五郎で北条氏康の4男とも5男ともいわれています。
どうやら元服の翌年に早世した長男新九郎をカウントしているかどうかの違いのようです。
今川氏親の5男だった義元は出家しましたが、助五郎は今川の人質に出されました。
一説では義元の養子となり、氏真に次ぐ継承権を持っていたともいわれます。
ただよく分からないので本文には登場させていませんが、義元には氏真を含めて子どもが4~5人あり、男子は2人でした。弟は一月長得(いちげつちょうとく)といい、曹洞宗の僧でした。ウイキ先生によると氏真を弔ったのが一月長得なのだそうです。
でもこうなると、助五郎が次男のように扱われた理由がよく分からなくなります。一月長得という人物のこともですが、(手元に)資料が全然ないのです。


助五郎は天文14年(1545)生まれですから永禄2年のこのときは15歳、満年齢で14歳です。このとき満年齢で17歳くらいの松平元康と仲が良かったというのは後のお話しにつながります。
天正18年(1590)、時の権力者である豊臣秀吉の小田原征伐が始まります。
このとき助五郎は北条氏規と名乗り、300余りの兵で小田原城の支城である韮山城に籠って豊臣の大軍相手に善戦しますが、松平元康改め徳川家康の説得で開城します。
小田原城でも当主である兄の北条氏政に戦闘続行の非を説きますが、後世『小田原評定』という慣用句が出来るほど北条家中は分裂し、豊臣に降伏することになります。
このとき当主氏政や三男氏照、そして一部の家臣は切腹を命じられましたが、氏規は徳川家康の嘆願により助命され、高野山へと流れることになりました。
後に氏規は許され、今の大阪南河内にあたる河内郡を宛がわれ、彼の子孫は現大阪狭山市にあたる狭山城城主として明治維新まで続きます。


同じ人質の身分でお隣さん同士だったということもあったのでしょうが、少年青年期に家康と仲が良かったということが、彼だけでなく子孫にまで影響したといえるかもしれません。