「私説桶狭間」58回目です。こちらです。(←文字クリックで移動します)
桶狭間の戦いが始まる前後の織田家の海軍力はどうだったのだろう。
このことを考えたのは鳴海、大高を囲む付城(砦)の配置を地図で確認していた時です。
一つは海側がガラ空きであるということ。
『信長公記』でも書かれていますが、鳴海城の南西側は黒末川の河口で、上げ潮の時は城のすぐ前まで波が来ていたようです。大高城も地図で見ると同じような状況だったろうと思われます。舟での輸送や交通が問題なく出来るということです。
もう一つ。大高城を囲む鷲津、丸根の付城ですが、この2つだけだと南方向がガラ空きとなります。これだけだとやはり見張りのための付城なのかな、と思います。
それぞれの城に2つあるのは、1つだけだと攻め落とされやすいということかもしれません。
でも、織田家が船団などをもっているなら話が変わります。
海上封鎖ができれば、少ない付城で効率的な包囲ができているように見えるのです。
では、当時の織田家は海の軍団を持っていたか。
どうやら答えはノーのようです。
現在の清州城と清州公園の間に流れる五条川は永禄時代も水を湛え、当時は城の内堀としても利用されていました。堺や伊勢などから船に運ばれてくる物資などは、五条川から直接清須城に降ろすことができたそうです。
ではその船は織田家の物だったかというと、そういう資料はなく、多分織田家管轄もあっただしょうが、大半は清須や熱田、津島の商品の物だったのではないかと想像されるのです。
理由があります。5年前の天文23年(1554)に起こった村木砦の戦いです。
このとき信長勢は熱田まで行き、そこの船頭や水夫たちを使って舟を出しています。
当時は那古野城が居城だったのですが、きっと舟は持っていなかったんでしょうね。
その後信長は清須城を乗っ取り織田一族内の内紛に勝利することになるのですが、その間海での軍事力を強化する機会はなかったのではないかと推測しています。
では何故信長はあのような配置で付城を造ったのか?
これも桶狭間の戦いにおける一つの謎だと思います。