「私説桶狭間」46回目です。こちらです。

今回は長尾景虎(上杉謙信)と斎藤義龍という2人の戦国武将の上洛話ですので、この欄も関連の小ネタ集でいこうと思います。

その①
上杉謙信、永禄2年の時点では長尾景虎と名乗っていたこの人物は、正義の人として扱われていることが多いですね。
その理由の一つが、足利将軍家と天皇家に対する崇敬の心が篤いという所にあるように思えます。
「たとえ国を失ってもあなた(将軍)への忠節を尽くします」というセリフはかなり大袈裟に聞こえますが、実際に景虎が言ったものです。
この時のことを書いた足利義輝の御内書が残っていて、その文章中にこの意味の言葉があるのです。
義輝さん、かなり感激したんでしょうね。

その②
斎藤義龍は永禄2年の4月に幕府の相伴衆に列せられ、27日の御湯殿上日記では京に滞在中の義龍に、将軍義輝が美濃2か所の租税を貢ぐよう要請したという記事があります。
でも義龍が天皇や将軍に拝謁したという話はありません。
相伴衆になるほどですから、信長よりも拝謁することが難しかったとは思えません。
本当に義龍自身が上洛したのか、多少疑問が残ります。
斎藤義龍は翌々年の永禄4年に亡くなりますが、病気のための急死と伝えられています。
ハンセン病だったという話もあり、それが事実ならこの時期から罹っていた可能性もありますね。

その③
永禄元年、将軍足利義輝が京に戻ってから後の三好長慶は、明らかにそれまでの行動と違っています。
将軍家に反旗を翻し、一時は京を占領していたにも関わらず、将軍が戻ってきてからは自ら挨拶に出掛けたり(2月2日、丁度信長の上洛と同じ日でした)、嫡男を将軍に紹介したりと、ほとんど家臣としての行動を取っています。
180度変わったわけです。
何故なのか?
やはり景虎や義龍などが手紙(御内書)一つで京に来る、将軍足利義輝の力に脅威を感じたということでしょうか?

いずれにしてもこの時期が三好長慶の全盛期であり、以降は衰退。5年後の永禄7年、病死します。
将軍義輝も長慶の死の翌年、永禄8年に長慶の家臣だった松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)によって暗殺されます。
永禄2年のこの時期は、2人にとってターニングポイントだったようなのです。