「私説桶狭間」23回目です。こちらです。


桶狭間の戦いを考えるとき、気になることの1つが、鳴海城・大高城の歴代城主は誰だったのか、ということです。

要はいつから今川家のものになって、どのような流れで桶狭間の戦いを迎えたのか、ということですね。


永禄3年の桶狭間の時点では、両方の城主(城代)の記録が残っています。

鳴海城が岡部元信、大高城が鵜殿長照です。

どちらも戦国時代好きの方には知られているかもしれませんが、一般的にはマイナーな名前です。が、以前を調べていくともっとマイナーな人々にぶち当たってしまいます。(当然といえば当然ですが)


まずは鳴海城。これは小説上でも書きましたが、元々信長の父親だった織田信秀の家臣、山口教継が城主でした。彼と息子教吉が裏切った時点でこの城と周囲は今川家の領地となりました。

これは天文21年(1552)といわれ、異説もありますが、信秀が亡くなってすぐだということです。信秀死去が3月3日、赤塚の戦いが4月17日といわれていますから、1カ月くらいで裏切りを表明したということになります。

山口父子が駿府に呼ばれ、今川によって殺されたことは「信長公記」にも載っているのですが、いつだったのかは分かりません。

小説上永禄2年にしたのは、あくまで進行の都合上です。このほうが流れがいいと思ったんですね。


で、問題は大高城です。

諸説あるのですが、天文年間はどうやら水野忠守もしくは忠氏という人物が城主になっていたようです。

小説に出ている水野大膳吉守は彼の息子です。

この水野家、緒川や刈谷の水野の分家だったようですが、山口父子が今川方だったきは、同じように今川に付いていたようなのです。確証はありませんが。


多分位置関係の問題だったんだろうな、とは思います。大高城は鳴海城と同じく海のそばにあり、ここが織田側だと常に鳴海城は脅威を感じることになる。また物資の補給は海上から船で、ということも多かったと想像するのですが(この件後にある問題に直面することになるのですが)、その際にも障害になると考えられます。

きっと力ずくで味方に引き入れたんでしょうね。


ちなみに大高城すぐの「春江院」は、大高城主の水野大膳が父である和泉守忠氏(ここでは忠氏ですね)を弔うため、弘治2年(1556)に建立したお寺だったそうです。

ということは永禄2年のこの時点、城主は息子の吉守かと、そういうことで書いています。