お久しぶりです。いつのまにか秋ですね。
秋はミステリーの美味しい季節です。


日本史でミステリーといえば、有名どころでは「本能寺の変」の黒幕でしょうか。
あと、龍馬暗殺の黒幕説もありますね。「龍馬伝」はそのあたりどう収めるのでしょうか。


マイナーではありますが、まるで推理小説のようなお話もあります。
今回はその中の一つ、戦国大名の今川家で起こった事件です。


事件は天文5年(1536年)3月17日に起こりました。
時の今川家当主の氏輝と、二男といわれる彦五郎が同じ日に亡くなったのです。
氏輝は24歳、彦五郎は年齢がわかりません。


ここで本来ならどのように死んだかを書くべきでしょうが、実はよく分かりません。
この件での今川家の史料がないんです。今川家にとっては大事件だったはずなのに。


それどころか彦五郎という名前も今川家の史料には出てきません。この人物、死んだことによって初めて名前が出てきているのです。


例えば、彼らの父親である氏親の葬儀の席次が残っているのですが、そこにも彦五郎の名前はありません。


氏輝の死因についてはこんな史料が残っています。『浅羽本系図』所収の今川系図という今川家の家系をまとめたものですが、このような記載がなされています。


「為氏輝入水、今川怨霊也」


尋常ではありません。怨霊にたたられて水死したと書かれているのです。


こんな記録もあります。「快元僧都記」というお坊さんの日記です。
「18日、建長寺・円覚寺の僧たちが、今川家の不例(貴人の病気)の祈祷として大般若を読まれる。しかるに、17日に氏輝の死去が注進されたため、その夜のうちに読経は終わった」

ということは、即死ではなかったのではないかと想像できます。


あと、入水した場所ですが、今川館の周りには堀があったそうですし、少し行けば安倍川がありました。


しかし氏輝が当主であることを考えると入水したのは館内だったと想像できます。


で、今川館の中で入水できそうな場所ですが、ひとつ考えられるのは風呂場です。
戦国時代の当時は今のような浴槽があったのかは不明ですが、沐浴する場所はあったのではないかと思われます。でも、いつもお湯(または水)が張っていたかは疑問です。


では、常に水がある場所がなかったのかというと、ありました。


池です。


今川館には富士山を借景とした庭園があり、三保の松原を模した松林、富士川を模した池があったそうです。駿河づくしというわけです。


この池がどうもそれっぽいと思うのですが、どうでしょう。


それにしても、氏輝と彦五郎の二人が同じ日に亡くなった事情が分かりません。どちらかが心中のようなことを図ったのか。偶然別々の理由で亡くなったのか。誰かが二人の死を仕掛けたのか。


そのことを考えるために、次は氏輝が死に至るまでの軌跡を見てみたいと思います。


この稿、続きます。