家を出ると小雨が降っていたが、僕はそのまま自転車で高円寺に向かった。下北沢から高円寺までは自転車で20分強なのでそれほど遠い訳ではない。今日はバングラデシュのカレーが無性に食べたくなったのでトルカリ高円寺というカレー屋に行くことにした。
高円寺には昔GEARというライブハウスがあった。GEARがあったビルはパルという商店街の中にあり、地下1階がGEARで、地下2階には20000V(2万ボルト)というライブハウスが入っていた。GEARも20000Vもハードコア・パンクのバンドが中心にライブをしていたので、夜になるとその一角だけ平和な商店街に似つかわしくない不穏な空気を醸し出していた。
18歳で初めて高円寺に行った時、5人のモヒカンとすれ違った。昼間からモヒカンが普通に街を歩いている姿に驚愕した。鋲のついた革ジャンを着て戦闘態勢に入ったモヒカンの姿は音楽雑誌などの写真で何度も見たことがあったが、オフのモヒカンを見るのは初めてだった。
よれよれのTシャツに短パンサンダル姿で商店街を歩くモヒカン、ネギが顔を出したスーパーの袋を持つモヒカン、ATMに並んでいる上下スウェットのモヒカン、ママチャリをこぐモヒカン、エプロンをしたコンビニの店員もモヒカンだった。僕が気付かなかっただけで、駅前には『モヒカンの街 高円寺へようこそ』という看板が出ているんじゃないかと思った。
今日は雨が降っているせいか、高円寺に着いたのにまだ一人もモヒカンを見かけていない。モヒカンの天敵である雨さえ止めば、雨後の筍のようにモヒカンは出てくるのだろうか。いや、そういえばGEARと20000Vがなくなってから、高円寺でモヒカンを見かけなくなった気がする。昨年、先輩の誕生日会で高円寺を訪れた際もモヒカンはいなかった。一昨年もそうだった。モヒカン達はどこに行ってしまったんだろうか。
自転車を押しながらGEARの跡地の前を通り過ぎる。GEARで最後にライブを見たのは2001年だった。大学を卒業して、春から吉本興業のNSCという養成所に通う直前だった。見に行ったのはabmというバンドのライブだった。
僕は高校時代、大阪の天王寺という駅のはずれにできた○か✕(まるかばつ)という中古CD屋に毎日通っていた。店主一人だけの小さな店だったが、他では売っていないハードコア・パンクのCDやノイズバンドのCDなどマニアックな品が揃っていて僕を飽きさせることはなかった。
店主の見た目は強烈で、腰まで伸びた黒髪に立派な口髭を貯え、いつもテンガロンハットを被っていた。どう見てもハルク・ホーガンというプロレスラーにしか見えなかった。店主の名は林直人さんといい、そのいかつい見た目と裏腹にとても優しい人だった。
林さんは17歳の時に、後に町田康の名で芥川賞受賞作家となる町田町蔵さんとINUというバンドを結成し、INU脱退後は1993年まで13年間AUSHWITZ(アウシュヴィッツ)というバンドのギターボーカルとして活動していた。僕が林さんと出逢ったのはちょうどAUSHWITZを解散した後で、出逢った当時は林さんが関西のパンクシーンの有名人だとは全く知らなかった。
高校卒業間際に僕はクラスの仲間に誘われてバンドのボーカルをやることになった。天王寺の『不思議の国のアリス』というライブハウスを借りて、仲間内でライブをすることになったと林さんに伝えると、林さんは当日こっそり見に来てくれていた。林さんは、LAUGHIN' NOSE(ラフィン・ノーズ)というバンドのボーカルのチャーミーの若い頃を見てるみたいでおもしろかったと言ってくれた。
東京の大学に進学することを伝えた時は「落ち着いたら手紙ちょうだい」と言って、住所と電話番号を書いたメモをくれた。
東京に引っ越してから一度だけ林さんの家に電話をしたことがあった。林さんは不在で、林さんの息子さんが電話に出た。林さんから折り返しの電話があった時、息子さんがまだ10歳だと聞いて僕は「すごくしっかりした息子さんですね。10歳とは思えない丁寧な受け答えで、僕も敬語でずっと話してしまいました」と言うと、林さんは「息子を大人として扱ってくれてありがとう。そういう経験が彼の為になるから、敬語で話してくれたことに感謝します」と言った。
2001年、僕が大学卒業を迎えようとしていた頃に林さんから電話があった。「新しく組んだバンドのライブが来月東京であるから久しぶりに会おう」と言われた。バンドの名前はabm。トリプルギターのノイズユニットらしい。abmとはanti-ballistic missileの略で、弾道弾迎撃ミサイルという欧米諸国を中心に配備されているミサイル防衛手段の一つ、とのことだった。僕は、林さんはとことん林さんだなと思った。
ライブは高円寺のGEARで行われた。その日のライブには林さんに縁のあるミュージシャンが参加していた。林さんが立ち上げに協力したアルケミーレコードという国内に現存する最古のインディーズレーベルに所属するINCAPACITANTS(インキャパシタンツ)という2人組のノイズユニットも出演していた。お客さんの半分は外国人で驚いたが、剥き出しの音の塊の前では人種や国境なんて関係ない。
abmのライブは凄まじかった。耳をつんざく轟音は露出した僕の顔や腕の皮膚をこれでもかと震わせた。僕の体にぶつかって跳ね返された音の残骸が何層もの膜となって体にまとわりつく。その音の膜は剥がれ落ちることなく、皮膚から体内に染み込んできた。自分の体が音に侵食されて音と同化していくのがわかった。ステージから発射された音のミサイルはいつの間にかフロア全体を包み込む大きな膜となり、僕たちは膨張と収縮を繰り返すアメーバーのような一つの塊になった。演奏が終わり、一瞬の静寂の後、フロアは歓声と拍手でまた一つに包まれた。
ライブ後、打ち上げに呼んでもらい林さんと飲んだ。僕は別れ際、これからNSCに通って吉本興業の芸人になるつもりだと伝えた。林さんは「じゃ今度は僕がライブ見に行くわ」と言ってくれた。
僕が林さんと会ったのはこれが最後だった。林さんはこの2年後に咽頭癌で亡くなった。僕が林さんの死を知ったのは下北沢の本屋だった。立ち読みしていた雑誌に林さんが闘病の末に亡くなったことが記されていた。享年42歳だった。
カレー屋に着いた。小雨が止まなかったので、まぁまぁ濡れてしまったが仕方がない。開店して30分ほど経っていたが客はまだ誰もいなかった。
フィッシュカレーを注文して料理を待っていたら、サービスでラッシーをいただいた。到着したフィッシュカレーは僕が好きな鯖だった。食後に「まだ食べれますか?」と聞かれ、「はい」と答えると、パエシというシナモンの香りがするデザートもサービスで出してくれた。雨の中、自転車をこいで来てよかったと思った。
カレー屋を出ると雨は止んでいた。
雨後のモヒカンを探してみたが、やっぱり見つからなかった。
林さんと飲んだ夜、僕が「abmって本当はアホ、バカ、マヌケの略なんじゃないですか?」と言ったら、林さんは「それいいね」と笑ってくれたことを思い出した。
僕は今年42歳になる。