1
皆さんが寝ていても「お父様」と言うことができ、独り言でも「お父様」と言えなければなりません。御飯を食べるのも忘れ、寝るのも忘れながら、その生活の裏面で父に対する懐かしさをもって「お父様」と言えば、父の手がつかめます。夢のような事実が起こるのです。「お父様」と言えば、父の懐に抱かれるのです。
このような表現的圏において、体恤的感情を どのように体得するかということは、信仰生活 で何よりも貴い内容であることを知らなければなりません。そのような体恤の感度、感じる度数、その量いかんが、その人の信仰基準になり得るのです。
そのような愛の心情をもったならば、どこかに行って「私がこれをしなければならない」という時は、「天よ、共にいてくださるように」と言う前に、既に神様は共にいらっしゃるのです。 このようなことを皆さんが感じれば、「有り難い神様」と言うようになるのです。(58-299,1972.6.25<P46>)
2
愛の主体がいなければ、何もないように感じます。しかし、愛の主体がいれば、すべてのものが満ちるのです。愛がいっばいに満ちてこそすべてのものが満ちるので、無限に与えることができるし、真実に与えることができるという結論が出てきます。授受することは理想の実現であり、理想の繁殖です。愛の世界は、距離を超越します愛がどれほど速いのかといえば、ついていくことができません。一番速いのが愛です。一番明るいのも愛です。 一番完全なものも愛です。一番完全に満ちるのも愛です。(95-39,1977.9.11<P74>)
3
統一教会の「原理」が偉大なのは何かといえば、創造性が具体的だということです。創造がどのようにされたのか、ということが分かるようになっているのです。その次に、どのように堕落したのかという実質的な論理があります。その次には、歴史観があります。
歴史過程において神様が堕落した人間を放置したままにしないで、再創造するためにどれほど苦労されたのか ということがはっきりしているというのです。そうして、過程を通して目的の世界に到達するということを、理論に一目瞭然(りょうぜん)に明らかにしたのです。(208-296,1990.11.20<P80>)
4
天地創造の道理を見れば、核心を先に造ってから相対を造るのではありません。 核心を造る前に、相対的な条件を造るのです。人を造るために土を造っておいて。外的なものを基盤として内的なものを立てていくのです。それが天地創造の道理なのです。
現在のものよりも大きいもの、無価値なところから、より価値のあるものを求めていくのです。天地創造の道理がそうなのです。人間創造を考えても、 体を先に造り、それから霊を造ったのです。(152-319,1963.8.18<P100>)
5
神様は、人間世界を造ると同時に天使世界を造りました。それでは、天使世界とはどのような世界でしょうか。 人間が一つの結実のために、花のような存在としての美を備え、香りを放ち 現れるときに、初めて愛の巣が完成するのです。それゆえすべての生命力は、 そこから出発するようになり、すべての生命の因縁をもった存在が、そこから和動できるようになるのです。この ように和動できるようになる起源が、正に人間なのです。
そのような人間を中心として、天にいる天軍天使たちが人間と、蝶や蜂のように互いに授け受けることができる和動の主体圏を成すようになれば、それこそ神様が喜ばれ、人間が喜び、天使が喜び、全被造万物が愛に浸る和動の花園になったことでしょう。また、春のうたげが始まったことでしょう。(31-124,1970.5.3<P108>)
6
堕落した人間を救うために、神様は宗教を立てました。その宗教とは何でしょうか。エバの宗教と、天使長の宗教を世界につくったのです。
エバと天使長ゆえに堕落したので、人類をエバと天使長の宗教をもって復帰するのです。その道を通じて復帰されるのです。
宗教は、天使長圏の宗教です。100個、1000個あったとしても、すべて天使長圏に属します。多くの宗教がありますが、それを大きく分けると四大宗教です。その中心はキリスト教ですが、キリスト教の主たる思想は、新婦の思想です。(239-136.1992.11.24<P115>)
7
神様だけが真の神であり、その他の存在は、神的存在の天使たちです。一神と多神に対する確実な区分をしようとするならば、多神教は神的な存在、天使たちが立てたものです。
これらの宗教の中で、善なる天使たちが人間の心霊と精神を高揚するために誕生したものがあるのですが、これらが高等宗教であり、神様はこの善なる宗教を通じて人類の心を開墾してきたということを知らなければなりません。
天使長宗教は、根本が明確ではありません。神様が何か分からないのです。終末にどうなるか分からないのです。ただ外的な遂行概念だけを中心として指導してきたのです。
それゆえ終末になると、ふろしきをまとめて主人の家に世話をしに行かざるを得ないという立場になるのです。明白な伝統がないからです。(237-186,1992.11.17<P115>)