2002年10月13日、鈴鹿サーキットでおこなわれF1日本グランプリ前座レースで大クラッシュをし、車椅子の生活となりました。

あの日から12年も経ち、多くの皆さんの支えを頂き、前進することが出来ました。


ベッドで目を覚ました時、体は動かず、声も出ない。何がどうしたのかも分からず悪い夢だと思っていました。

何度も寝て起きても同じ繰り返しで見えるのは天井だけ。目をキョロキョロ動かすことしか出来ませんでした。
夢としか考えられませんでした。

そんなことを繰り返していた時に母親が視界に入り、声を掛けようと声を出そうとしても、気管切開していて声も出せませんでした。


僕の記憶は2週間くらいは今でもなく、事故の記憶も前日の記憶もありません。
思い出そうと努力し、著書「それでも僕はあきらめない」で多くの皆さんに取材をし、空いた記憶の穴埋めをし、どのような状況だったのかを教えて頂きました。


それから約2年間のリハビリが始まりました。

身体は全く動かず、首を固定するハローベストで首も動かず、ベッドで寝た状態から10度、20度とほんの少し角度をつけただけで血液があしにいき、貧血になっていました。
それの繰り返しだけでただ辛いだけのリハビリを鈴鹿総合病院ではおこなっていました。
唯一の楽しみはICUから出てリハビリ室に向かう通路から見える外の景色でした。

レースが出来ずその年のライバルに置いて行かれる不安と、まわりの家族や友人からは「時間が経てばまた同じようにレースが出来る」と言われていたので、いつレースに出られるのかを考えていました。


寝た状態から声を出すことも、寝た状態から角度を付けることも出来ない。
僕に出来たのは時計を見ながら早く時間が過ぎないかなと思うことだけでした。

家族や友人の面会時間は時間が凄く早く過ぎてくれていました。
面会室へリクライニング車椅子に乗せられていった時も貧血でも我慢出来ました。

24時間ベッドの上で横になっていて、起き上がることも出来ない。
話すことも出来ない。1分1秒が時間がこんなに長いのかと思っておかしくなりそうでした。


1ヶ月半の鈴鹿総合病院から東京厚生年金病院に転院したときは左の手首を上げることが出来るだけでした。
数か月がたって初めて車椅子をこぐことが出来た時、本当に数メーターこいだだけで疲れしいました。

事故前は当たり前に出来ていたことが何一つできない。
たいしたことすら出来ない自分がつらかったです。
いつか歩けるのだから車椅子なんて必要ないと思っていたし、車椅子は高齢者が乗るもので、乗ること自体嫌でした。


今では普通に出来ていることも、数年前は出来ていなかったことばかりです。
普通に出歩けていることも、振り返ると退院してすぐは一人で駅まで行くことすらできませんでした。

こうした切っ掛けをくれたのは、支えてくれた家族や友人や仲間でした。
今もこれからも大切です。


正直、僕がこれまでしたきたことは正しいのかと考えたことが無く、自分が良いこと楽しいことをおこなったきました。

11月におこなわれる園遊会にご招待いただくことが出来たことで、これまでしてきたことが正しい方向だったのだと実感することが出来ました。
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事故によって気付いたことがたくさんあります。
この気付きのおかげで今の自分があります。

感謝の気持ちを忘れず、さらに成長していきたいと思います。
楽しんでいきます。