2002年10月13日鈴鹿サーキットで開催されたF1日本グランプリ前座レースのフォーミュラドリームで、僕はゲストドライバーとして参戦しました。



2周目のスプーンコーナーで前車と接触し、宙を舞い、大破しながら250m離れたフェンス最上段にぶつかった大クラッシュをしました。




そのクラッシュで心肺停止し生死を彷徨い、首の骨を折り頚椎損傷してしまいました。





当時のことは僕の本「それでも僕はあきらめない」で当時のメディカル、レスキューの皆さんに状況をお伺いし、だいたいの記憶の穴埋めは出来ました。



僕は当然ながら覚えていませんので。





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偶然、洋服のお直しで当社銀座三越「リフォームサロン アトリエロング」に内藤さんがお越し頂いたのは数ヶ月前!



僕の本がフィッティングルームに置いてあり、母親に関係を聞かれたそうです。



その話しを母親から聞き、絶対にお会いし、元気な姿を見せたいと思い、本日お会い出来ました。



僕の記憶にない隙間を少しでも穴埋めしたく、たくさんお話をお伺いしました!







事故の日はレスキューカーに乗り、鈴鹿サーキットヘアピン立ち上がりの17番ポストに待機されていたそうです。



待機していたレスキューさんは6名。


事故がおき赤旗が出てすぐにコントロールタワーから出動要請があったそうです。




猛スピードで事故がおきたスプーンコーナーに向かったけれど、タイヤバリアとフェンスの間に落ちた僕のマシンはすぐに見つからなかったそうです。






「あそこだ!」




と発見し、コース上に止めたレスキューカーから6名のレスキューさんがダートを走りながら僕のところへ駆けつけたそうです。




内藤さんは当時僕と同じ年齢の22歳。
それまで茂木でレスキューをしており、鈴鹿は初めてだったそうです。




内藤さんは右フロントタイヤあたりにおり、鈴鹿のレスキューさんがまずヘルメットを脱がせたそうです。




出血はありましたが外傷もなく、顔色は白いけれど、まるで寝ているようだったそうです。



それからすぐに左フロントタイヤあたりにいたドクターの小野さんが軌道確保をおこなったそうです。



僕は、軌道確保はマシンからおりたあとにおこなわれたのかと思っていました。




その間にブルーシートはかけられ、その後、マシンから引っ張り上げられたそうです。





それからすぐに4人がかりでコース上の救急車まで運ばれたそうです。




いつもなら怪我人の容態の報告がすぐに無線であるそうですが、この時は無く、その後頚椎損傷と報告を受け、皆さんで祈ってくださっていたとお伺いしました。






これがF1の開催日ではなければ、心肺停止していた僕の命はなかったです。



あの日あの時あの場所、全てが重なり、生かして頂きました。


感謝してもしきれないくらいです。
本当にありがとうございました。






今生きれていること、僕には使命があるのだと思っています。




この事故でご心配おかけしてしまったかたはたくさんおります。

本当に申し訳ございませんでした。






僕は前向きにがんばっています。

これからも同じ気持ちで頑張ります!